烏森発牧場行き
第188便 立会川のミシェル
2010.08.10
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2010年6月30日,水曜日,午後5時すぎ,私は京浜急行電鉄の立会川駅を出てすぐの,道ばたにある坂本龍馬像に足を止め,「今日もムシムシ,嫌な天気だね」と首すじの汗を拭きながら,掲示の説明を読んだ。
立会川河口附近に土佐藩の下屋敷があり,黒船船団にそなえる警固のため,江戸詰めの武士を浜川砲台に動員した。そのなかに,19歳の龍馬がいたのである。近いらしい浜川砲台跡に行ってみようかとも思ったが,「今日は大井競馬に来たから,別の日にね」もういちど龍馬像に向きあったとき,「最近はよ,あっちこっちに龍馬って字があるけどな,おれよ,それを見るたび,競馬って読めちゃうんだよな」いつのまにか私のとなりにいた男が,そう話かけてきて笑い,龍馬像に競馬新聞を持った手を合わせ,頭を下げた。
「ありゃあ,龍馬も困ってるべ。馬券が当たるようにって頼まれても」私が笑うと,男は親しげに私の肩を叩いた。青いTシャツの男は40歳ぐらいだろうか。痩せて背が高くて髪が長い。競馬場へと歩いた。
「少し年を食ったミシェルがいた,と思ったよ」私が言った。「ミシェル? 何,それ?」
「昔,勝手にしやがれ,という映画があって,その主人公が,ミシェル。ジャン・ポール・ベルモントというのが演じたチンピラヤクザがミシェル」
「おれ,ヤクザかい」
「魅力があるなあってことよ」
「だったら,許す」
「自動車を盗み,金を盗み,無造作に警官を射殺するのがミシェル。その映画を見て,おれ,スカッとしたものさ。それから50年も過ぎちゃったけど,あなたを見たとき,おっ,立会川のミシェルって思ったわけ」
「おれ,ホメられてるのかよ,コケにされてんのかよ」
「どっちでもいいじゃん,そんなこと」
「変なジジイに会ったなあ」
「あなた,立会川のミシェルとしては,今日の帝王賞,フリオーソから買うだろ?」ちょうど交差点の信号待ちで, 「なんで?なんでわかる?」 男は私の顔を見て,「中央の馬がよ,大井や川崎で,地方の馬をやっつけて騒がれてるのを見たくねぇんだ」と握手をしてきた。信号の赤が青になる。
「人類がね,ケイタイだのネットだのアイパッドだの,変なオモチャばっかり作りやがって,つまらない人生にしちゃってるわけよ。そのくせ,戦争はやめられないくせにな。そういう世の中で,帝王賞のフリオーソに勝たせたいって祈ってる立会川のミシェルこそヒーローさ」
「まいったなあ。変なジジイに会ったもんだ」
「インポのミシェルって言ってくれよ。それとも,おれ,サカモトケイバかも」
「坂本競馬。いいねえ」男と私は100円払って競馬場に入った。
「おれ,人と会う約束をしてるんだ」
「パドックの裏に馬頭観音があって,馬券が当たると,その前のベンチでビールをのんでるから,また会おうよ」と男は言い,別れた。
6時45分発走の第9R「若駒スプリント賞」が近づくころ,ぞろぞろぞろぞろ,会社帰りの人たちが集まってきて,私はうれしくなる。薄いオレンジ色もまざっていた白っぽい空が,いつのまにか紺色になっていると,あちこちで男たちがビールをのんで笑い,そこに若い女性もいて花になり,この景色は,中山や東京にはないぞと私は思い,またうれしくなるのだ。
パドック裏に勝島馬頭観世音菩薩の旗が立っている。ベンチで青いTシャツの男が,白いYシャツの太った中年男とビールをのんでいた。「アタッタビール?」私もベンチに坐って言った。「うちの社長」と男が太った男のことを言う。どんな仕事なのか,まるで私には見当がつかない。
「第8Rで6番人気の的場文男の馬を買って,社長が馬単で万馬券を取ったの。おれはハズして,社長のオゴリビール。第8Rのあとに,的場文男の6000勝の記念セレモニーがあるから,ご祝儀のつもりで社長は買ったんだって」と男は言い,太った男は何も言わずにニヤニヤしていた。「社長もフリオーソに勝ってほしいですか」私が聞いて,太った男が首を横に振った。
「こいつはそういうことを言うんだけど,わたしには,そういうことはないね。べつに,いいよ,ヴァーミリアンが勝とうが,カネヒキリが勝とうが,馬券が当たればいい。こいつ,柄にもなく,けっこう純情なんだ。中央がどうとか,地方がどうとか言うんだよな」そう言って太った男は腰をあげ,ちょっと会釈をして人ごみへ歩いて行った。
私は帝王賞を青いTシャツの男と見ることにした。目の前にファンファーレを吹く楽隊が並び,男は夜空へ向けて手を合わせ,「フリオーソ」とひとこと祈った。戸﨑圭太騎乗のフリオーソが,2番手追走から直線で抜け出してくる。「トサキ! トサキ! トサキ!」
男は叫び続け,フリオーソがカネヒキリを2馬身半振り切ってゴールすると,「フリオーソ!」凄い声を張りあげた。
さっきのベンチに私は戻り,男がビールを買ってきた。「カネヒキリって怪物だ。1年2ヵ月ぶりの8歳で2着だぞ。しかし,大井の,ボンネビルレコードの3着は立派だなぁ。的場だよ。的場文男だ」
「立会川のミシェルに乾杯!」と私が紙コップを夜空に近づけた。
立会川河口附近に土佐藩の下屋敷があり,黒船船団にそなえる警固のため,江戸詰めの武士を浜川砲台に動員した。そのなかに,19歳の龍馬がいたのである。近いらしい浜川砲台跡に行ってみようかとも思ったが,「今日は大井競馬に来たから,別の日にね」もういちど龍馬像に向きあったとき,「最近はよ,あっちこっちに龍馬って字があるけどな,おれよ,それを見るたび,競馬って読めちゃうんだよな」いつのまにか私のとなりにいた男が,そう話かけてきて笑い,龍馬像に競馬新聞を持った手を合わせ,頭を下げた。
「ありゃあ,龍馬も困ってるべ。馬券が当たるようにって頼まれても」私が笑うと,男は親しげに私の肩を叩いた。青いTシャツの男は40歳ぐらいだろうか。痩せて背が高くて髪が長い。競馬場へと歩いた。
「少し年を食ったミシェルがいた,と思ったよ」私が言った。「ミシェル? 何,それ?」
「昔,勝手にしやがれ,という映画があって,その主人公が,ミシェル。ジャン・ポール・ベルモントというのが演じたチンピラヤクザがミシェル」
「おれ,ヤクザかい」
「魅力があるなあってことよ」
「だったら,許す」
「自動車を盗み,金を盗み,無造作に警官を射殺するのがミシェル。その映画を見て,おれ,スカッとしたものさ。それから50年も過ぎちゃったけど,あなたを見たとき,おっ,立会川のミシェルって思ったわけ」
「おれ,ホメられてるのかよ,コケにされてんのかよ」
「どっちでもいいじゃん,そんなこと」
「変なジジイに会ったなあ」
「あなた,立会川のミシェルとしては,今日の帝王賞,フリオーソから買うだろ?」ちょうど交差点の信号待ちで, 「なんで?なんでわかる?」 男は私の顔を見て,「中央の馬がよ,大井や川崎で,地方の馬をやっつけて騒がれてるのを見たくねぇんだ」と握手をしてきた。信号の赤が青になる。
「人類がね,ケイタイだのネットだのアイパッドだの,変なオモチャばっかり作りやがって,つまらない人生にしちゃってるわけよ。そのくせ,戦争はやめられないくせにな。そういう世の中で,帝王賞のフリオーソに勝たせたいって祈ってる立会川のミシェルこそヒーローさ」
「まいったなあ。変なジジイに会ったもんだ」
「インポのミシェルって言ってくれよ。それとも,おれ,サカモトケイバかも」
「坂本競馬。いいねえ」男と私は100円払って競馬場に入った。
「おれ,人と会う約束をしてるんだ」
「パドックの裏に馬頭観音があって,馬券が当たると,その前のベンチでビールをのんでるから,また会おうよ」と男は言い,別れた。
6時45分発走の第9R「若駒スプリント賞」が近づくころ,ぞろぞろぞろぞろ,会社帰りの人たちが集まってきて,私はうれしくなる。薄いオレンジ色もまざっていた白っぽい空が,いつのまにか紺色になっていると,あちこちで男たちがビールをのんで笑い,そこに若い女性もいて花になり,この景色は,中山や東京にはないぞと私は思い,またうれしくなるのだ。
パドック裏に勝島馬頭観世音菩薩の旗が立っている。ベンチで青いTシャツの男が,白いYシャツの太った中年男とビールをのんでいた。「アタッタビール?」私もベンチに坐って言った。「うちの社長」と男が太った男のことを言う。どんな仕事なのか,まるで私には見当がつかない。
「第8Rで6番人気の的場文男の馬を買って,社長が馬単で万馬券を取ったの。おれはハズして,社長のオゴリビール。第8Rのあとに,的場文男の6000勝の記念セレモニーがあるから,ご祝儀のつもりで社長は買ったんだって」と男は言い,太った男は何も言わずにニヤニヤしていた。「社長もフリオーソに勝ってほしいですか」私が聞いて,太った男が首を横に振った。
「こいつはそういうことを言うんだけど,わたしには,そういうことはないね。べつに,いいよ,ヴァーミリアンが勝とうが,カネヒキリが勝とうが,馬券が当たればいい。こいつ,柄にもなく,けっこう純情なんだ。中央がどうとか,地方がどうとか言うんだよな」そう言って太った男は腰をあげ,ちょっと会釈をして人ごみへ歩いて行った。
私は帝王賞を青いTシャツの男と見ることにした。目の前にファンファーレを吹く楽隊が並び,男は夜空へ向けて手を合わせ,「フリオーソ」とひとこと祈った。戸﨑圭太騎乗のフリオーソが,2番手追走から直線で抜け出してくる。「トサキ! トサキ! トサキ!」
男は叫び続け,フリオーソがカネヒキリを2馬身半振り切ってゴールすると,「フリオーソ!」凄い声を張りあげた。
さっきのベンチに私は戻り,男がビールを買ってきた。「カネヒキリって怪物だ。1年2ヵ月ぶりの8歳で2着だぞ。しかし,大井の,ボンネビルレコードの3着は立派だなぁ。的場だよ。的場文男だ」
「立会川のミシェルに乾杯!」と私が紙コップを夜空に近づけた。