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第195便 日溜まり

2011.03.17
 もう15年近くが過ぎてしまったが,私は還暦になっても草野球チームの一員だった。そのころのポジションは宴会部長だけれども。
 そのチームに秋田県南秋田郡出身の若者がいて,仕事はレストランのコックだった。小柄だけど足が速く,元阪急ブレーブスの盗塁王の福本にちなんで,ニックネームは「フクモト」。

 年に2度か3度,野球の上手なフクモトの父親が秋田から遊びにきて,試合があるとゲスト出場をし,でっかいホームランを打ったりした。チームメートが「兆治さん」と呼んだのは,元ロッテの名投手,村田兆治に顔が似ていたからだ。仕事は大工である。
 南国好きのフクモトは,何度か沖縄への旅をするうち,石垣島の女性と恋をし,子供が出来て,石垣島の住民になったが,それからあとも兆治さんは変わらずに,草野球仲間(チームは解散したが)と酒を飲むのを楽しみにして秋田から出てきていた。

 八王子市にいる妹の娘の結婚式で品川のホテルに来ていた兆治さんが,私の家に泊まったのは2011年1月31日。
 「兆治さんとも20年のおつきあいになるのね。アタマに雪が降るわけだ」とかみさんが笑った。黒々としていた兆治さんの短く刈った髪も,60歳を間近に,ずいぶん白くなっている。

 2月1日,火曜日の朝,「競馬場ってとこへ行ってみたいんだけども」朝めしを食べながら兆治さんが突然に言った。
 「競馬だなんて言うの,初めてだな。どうしてまた?」
 「前から,そう思ってたんだ。べつだん,深いワケもないけどな」そう言う兆治さんに,
 「秋田県に競馬場はないわよね」かみさんが言い,
 「日本でいちばん自殺者が多いのは秋田県と新聞に出てた。競馬場がないというのが理由かもしれない」と私がマジに言ってみた。

 私と兆治さんは大井競馬場へ出かけた。最近は電車もバスもカードのスイカを使うのがあたりまえになったので,スイカを持たない兆治さんが現金で切符を買うのが新鮮だった。JR鎌倉から横浜までが330円。京浜急行に乗りかえて立会川駅までが270円。スイカを使うことで,電車賃という意識が消え,まるで無料で乗っているような錯覚をしている,と私は思った。

 競馬場に着いて予想紙を買った。500円。「ずいぶん高いもんだね」と兆治さんが言った。新聞売りのおばさんが,2部買ったので,私と兆治さんにアメ玉をふたつずつくれた。
 100円の入場券を買い,入口の女性に,「新聞のおばさんはアメをくれたけど,ここではくれないの?」と私は言ってみた。女性がびっくりした顔になったので,「ごめんごめん」私はあやまった。競馬場よりも新聞売りのおばさんのほうが,お客のありがたさを知っている。そう私は思った。

 12時30分発馬の第4Rの16頭がパドックを歩いていた。ウマっ気まるだしの13番テラザジャスティスに目がいってしまう兆治さんは,「元気いっぱいなんだべ」と面白がって単勝を買ったが,けっこう人気があったのに13番は馬群に沈んだ。
 これがパドック。あれがゴール。あのガラスの中が指定席や馬主席と私の説明を聞く兆治さんが,強く興味を感じたのが場立ちの予想だった。

 ザ・トップ。半ちゃん倶楽部。夢追人。レコード社。牛若丸。チャンプ。ビックバン。ラッキー社。宝來社。田倉の予想。まつり。グッドニュース。うまたか。ホースキングラブ。大多喜社。狙い撃ち。島の予想。ゲートイン。1回分200円。1日分1000円。そう表示した予想売り場のひとつひとつを,「おもしろいなあ。こういうの,いいなあ」と兆治さんは見て歩いた。

 5Rと6Rを,兆治さんは200円で予想を買ったが当たらなかった。7Rから12Rまでは,一所懸命に新聞を読んで買い,11R桃花賞の馬複15.1倍の1000円だけが的中した。日暮れて品川の居酒屋で飲んだ。

 「これ,ひとつぐらい,当たってほしかった」と兆治さんが見せたのは,9Rから12Rまで,③−⑩と⑥−⑫の馬複を各500円の馬券だった。「ユリっぺの誕生日と命日。3月10日と6月12日。どれもこれも当たれば大穴だったけど,そうは甘くなかったね」兆治さんが笑った。ユリっぺは兆治さんの娘だ。4年前に25歳で病魔に襲われて亡くなった。
 「悪かったね。1日つきあわさしちゃって」
 「なんの,おれも記念になったさ」
 「競馬場,おもしろかった」と言って兆治さんは秋田へ帰った。

 あくる日,昨日の大井の入場者は,3,857人,とスポーツ紙で読んだ。1階スタンドの日溜まりを選んで兆治さんと並んでいたベンチでの半日を思いだし,冬の大井競馬場の空気がよみがえった。
 寒い平日の3,857人って,凄い数字だなあ。ファンあっての競馬,と競馬関係者は口では言うが,個人的な感情として,どんなふうにありがたいと思っているのかなあ。

 馬券の好きな連中が,たいして金もないのにとか,まさかバカにしていないだろうな。競馬の関係者って,カネモチしか人間じゃないみたいに思ってる人,多いからなあ。どうして全部のレースで,客の見えるところで,口取りをしないのかなあ。それって,よく考えると,普通の客にツメタイんじゃないの?

 そんなことを考えている私に,ふと,兆治さんの馬券,③−⑩と⑥−⑫がちらついた。そうか,兆治さん,あの日溜まりで,25歳で死んでしまったユリっぺのことを考えていたのだ。そう思う私に,大井競馬場の1階スタンドのベンチにいた男たちが絵になって浮かんだ。

 「日溜まり」その絵に題をつけて私は,静かな気分になった。
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