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第303便 無時間

2020.03.11
 「暦では新しい年を迎えたが、そうした時計が刻む通常の時間、とは異なる時間がある、と谷川さんはいう。その時間の中では、死者たちも、一種の幻想みたいに存在しつづけている、という。谷川さんはそれを、無時間の時間と呼ぶ。肉体にこそ通常の時間が刻まれていくが、無時間を生きる魂や心は死ぬことはなく、不老不死。だから武満徹や大岡信ら親友が亡くなっても、寂しくないという感覚がずっとある」

 と赤田康和という人が書いた文章を新聞で読む。谷川さんとは、詩人の谷川俊太郎さんのこと。
 「無時間」
 と私は心で何度も言い、ずいぶん長いこと、宙を見つめていた。
 あの時間も、無時間だったのかな、と思うことが浮かんできた。
 19歳のころ、私はガリ版刷りで、「欠席届」という詩集を作った。受験勉強から逃げだし、酒場へ逃げこんでバーテン見習いをしていた私は、
 「つまり、学校に背を向けたように、人生にも背を向けてるわけだ。学校を休むとき、仮病でもいいから欠席届は出さなきゃならない。人生にも欠席届を出さなきゃね」
 と客で来ていた大学の先生に言われたのが心に残り、半分は必死、半分は冗談で、自分なりの詩を書き、詩集を作ったのだった。
 どんな経路で実現したのか、まったく思い出せないのだが、杉並区阿佐ヶ谷だったか谷川俊太郎さんの家に私がいて、大きなテーブルで谷川俊太郎さんが「欠席届」を読み、
 「おもしろいです」
 と笑顔になったのははっきりおぼえている。
 谷川俊太郎さんは自分の名刺に、「吉川良君を紹介いたします。話相手になっていただければ。ロシナンテの皆様」と書いてくれた。
 ロシナンテというのは、すでに詩人として認知されている人たちのグループだった。怖かったのか、そこも欠席したかったのか、私はロシナンテへ行かなかったが、谷川俊太郎さんからいただいた名刺は、65年後の今も、机の抽斗にある。
 谷川俊太郎さんの「静かな犬」という詩が浮かんできた。そのなかの4行、
 「静かな犬は
 もの問いたげに私を見上げる
 恨みや諦めの色のない眼
 私より上等な魂」
 と思いだし、
 「静かな犬は 
 静かに待っている
 次に来る何かを
 何の期待も幻想もなく」
 という、もうひとつの4行も思いだし、犬は無時間を生きているのかなという考えがちらつきはじめ、やがて犬が馬に変わって、「静かな犬」を「静かな馬」と思い変えていたりした。

 仕事部屋の窓から見える空の青さに惹かれながら、私の頭には、不意にオグリキャップが現れた。もうかなりの歳月が流れる前の、北海道新冠の優駿スタリオンステーションの馬房にいるオグリキャップだった。天国に旅立つ半年ほど前のことだったろうか、薄暗い厩舎でぼんやりと、馬栓棒の上から顔を出しているオグリキャップ。
 私は栗東トレセンの馬房でも、美浦トレセンの出張馬房でも、オグリキャップのおでこに手のひらをあてた思い出があるから、ここでも触りたいなあと手をのばし、おでこに触った瞬間、怒ったように嚙みついてきたのであわてた。
 オグリキャップはオグリキャップだ。現役時代の走りは、ほとんど狂気の表現だと思っていた私は、その瞬間的なオグリキャップの感情表現に納得したのだった。
 私は厩舎やパドックでオグリキャップを目にすると、いつも三石の稲葉牧場で会ったことのある、オグリキャップの母のホワイトナルビーを思いだすのがクセのようになっていた。
 私が放牧地でホワイトナルビーを見ていたとき、静かな雪が降っていた。この牝馬と、ダンシングキャップのあいだに生まれた芦毛の牡馬が、笠松競馬場で走り、やがて中央に移って、無数の人たちを熱狂させたのだなと、ホワイトナルビーといっしょに雪を感じていると、そこが不思議な幸せに満ちた空間のように思えた。
 稲葉牧場におじいさんがいて、ホワイトナルビーといっしょにいる私の近くに来て、
 「牧場のはずれにお墓があってな、おばあさんが眠ってるだよ。わたしは毎日、いちどはそこへ行って、おばあさんに、昨日はこんなことが、今日はこんなことがあったと、知らせてやるんだ。
 オグリキャップのことは、いっぱい、たくさん知らせることがあってな、きっと、ばあさんも、おどろいてよろこんでると思うよ」
 とゆっくりした口調で言った。
 その話を聞きながら私は、オグリキャップという、私の思いかたではもの凄いアウトサイダーが出現したのは、おじいちゃんがおばあちゃんに、毎日のように、日常の報告に行ったからだと思った。
 そんなふうに、昔のことが映っている私の頭に、アロースタッドで会ったブライアンズタイムが現れた。
 「偉いもんだ。もう片手で数えるぐらいの頭数だけど、タネつけ、がんばってくれる。神さまだよね、こうなると」
 アロースタッドの人に説明されて私は、眠そうなブライアンズタイムの前で背すじをのばし、少しだけおでこに触らせてもらい、この触った馬は、ナリタブライアンやマヤノトップガンやチョウカイキャロルの父親なんだよなあと思った。
 谷川俊太郎さんの「静かな犬」を思いだしながら、私の頭にはオグリキャップやブライアンズタイムがいて、その詩に書かれた恨みや諦めの色のない眼を思いだし、何の期待も幻想もない、私より上等な魂を感じていた時間は、おれの無時間かもしれないと思った。
 そう、こうした無時間は、競馬場やウインズにいるときもやってくる。
 そう、この無時間という時間は、競馬を愛してしまった人には、誰にでもやってくるだろう。
 「馬券がハズれた瞬間も、たぶん無時間」
 と私は自分に笑いかけた。
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