第5コーナー ~競馬余話~
第168回 「恩返し」
2025年2月8日、東京競馬場でマケズギライ(牝4歳、美浦・石栗龍彦厩舎)が10か月ぶりに白星を挙げた。これが自身2勝目となった。4歳以上1勝クラスのダート1300㍍戦は、この日の最終レースだった。戸崎圭太騎手を背に16頭立ての14番枠からスタートしたマケズギライは序盤、後方を進んだ。直線に入ると、馬群の外から着実に末脚を伸ばした。最後はトルーマンテソーロをクビ差でかわし、1番人気に応えて1着でゴールした。
馬主の江川伸夫さんの笑顔がはじけた。それもそのはず。マケズギライは江川さんが長い間大切にしてきた母系から誕生した1頭だからだ。
話は1993年にさかのぼる。この年生まれた1頭を江川さんが所有した。父アイネスフウジン、母テイルコートという血統の牝馬はフレンドパークと名付けられ、美浦の古山良司調教師に育てられた。3歳から7歳まで5シーズン走り、47戦3勝の成績を残した。繁殖牝馬になったフレンドパークは9頭の子どもを出産した。9頭とも江川さんが所有した。
フレンドパークがエイシンサンディとの間に01年に産んだのが牝馬ミココロである。ミココロは美浦の小桧山悟厩舎に入った。丈夫だったミココロは2歳から9歳までの8シーズンで84戦(1勝)した。引退後繁殖入りして、パイロ(USA)との間に12年3月に産んだのが牝馬カゼニモマケズだった。カゼニモマケズも江川さんの所有馬となり、美浦の石栗龍彦調教師に育てられた。中央競馬で1勝した後、岐阜・笠松に移籍し、3勝を上乗せした。
繁殖牝馬になったカゼニモマケズの2番子がマケズギライ(父バンブーエール)である。フレンドパークに始まり、ミココロ、カゼニモマケズ、そしてマケズギライと母娘4代にわたって所有した結果の勝利。GⅠでも重賞でもない平地の一般レースだが、江川さんはこれ以上ない笑顔で愛馬の勝利を喜んでいた。「この血統は牝馬の成績がいいんですよ」と江川さん。会心の勝利だった。
その翌日、2月9日に東京競馬場では第75回東京新聞杯が行われた。優勝したのは3番人気のウォーターリヒト(牡4歳、栗東・河内洋厩舎)だった。きさらぎ賞がハナ差の2着だったり、京都金杯でもクビ差の2着だったりと、あと一歩で勝利を逃す惜しいレースを繰り返してきたが、重賞挑戦7度目でついに初タイトルを手にした。それは滑り込みセーフ、といっていいようなタイミングだった。3月には河内調教師が70歳で定年を迎え、厩舎は解散することになっていたのだ。23年にアイコンテーラーでJBCレディスクラシック(JpnI、大井競馬場)を制してはいたが、中央競馬の重賞は18年の平安S(サンライズソア)から途絶えていた。
河内調教師は関西に所属する騎手として一時代を築いた。メジロラモーヌとのコンビで史上初の牝馬三冠を達成。皐月賞(アグネスタキオン)、日本ダービー(アグネスフライト)、菊花賞(ハシハーミット)にも勝ち、5大クラシック完全制覇など勝負強さを発揮した。年間最多勝に3度輝き、JRA通算2,111勝。昭和と平成でそれぞれ1,000勝を挙げた唯一のジョッキーだ。14年には騎手として競馬の殿堂入りを果たしている。
03年に調教師免許を取得し、05年に開業した。その翌年の06年、セレクトセールで1頭の牝馬と巡り合った。1歳馬セッションに出場していた社台ファーム生産の牝馬「ベルセゾンの2005」である。父サクラバクシンオー、母ベルセゾン、母の父ベリフア(IRE)という血統だった。細川益男オーナーが800万円(税別)で落札し、マチカネハヤテと命名され、河内厩舎の一員に加わることになった。
07年11月中京でデビューしたマチカネハヤテは3戦目で未勝利を脱すると、4戦目のかささぎ賞(小倉競馬場)でも優勝した。桜花賞を目指したが、夢はかなわなかった。それでも短距離戦に強く、19戦し、芝1200㍍戦ばかりで5勝を挙げる成績を残し、初期の河内厩舎を活気づけた。
繁殖入りしたマチカネハヤテがヴィクトワールピサとの間に13年に出産したのが牝馬ウォーターピオニーだ。ウォーターピオニーもまた河内調教師に育てられた。15年11月のデビュー戦(京都競馬場)で優勝するなど19戦3勝の成績を残した。現役を引退したウォーターピオニーがドレフォン(USA)と交配して、21年に誕生した初子が東京新聞杯を勝ったウォーターリヒトである。河内調教師は、マチカネハヤテ、ウォーターピオニー、ウォーターリヒトと親子3代にわたり、約20年間、この血統を育ててきた。調教師引退の年に開業間もない時に活躍した牝馬の3代目が重賞勝ちをプレゼントしてくれる。映画か小説の筋書きにしても出来すぎた話だ。このレースを見ていたベテラン競馬記者は「競馬の神様っているんだね」と感想をもらした。競馬の世界で働く人々はよく言う。「愛情をかけて育てれば、馬は必ず恩返しをしてくれる」
マケズギライもウォーターリヒトも、長年かけて、その血統を育ててくれた馬主や調教師の恩に報いようと、実力以上の力を発揮したのかもしれない。