第5コーナー ~競馬余話~
第88回 「19回」
2018.07.13
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5月27日に行われた東京優駿(日本ダービー)では、5番人気のワグネリアンが優勝し、第85代ダービー馬になると同時に、手綱を取った福永祐一騎手(41)が68人目の「ダービージョッキー」になった。
1996年にデビューした福永騎手は3年目の1998年にダービー初騎乗を果たした。コンビを組んだのはキングヘイロー。ダンシングブレーヴ(USA)産駒で前年の10月にデビューし、3連勝で東京スポーツ杯3歳S(当時)を制し、年が明けてからも、弥生賞3着、皐月賞2着とクラシック戦線の王道を歩んだ。ダービーでもスペシャルウィークに次ぐ2番人気の支持を受けていた。しかし結果は14着。福永騎手の初めてのダービーは悔しいものになった。
その後、福永騎手は2000年、2001年にも出場し、2003年からは16年連続でダービーに顔を出してきた。ワグネリアンでの初優勝まで19回の騎乗を重ねた。これは1993年にウイニングチケットで優勝した柴田政人騎手と並ぶ初勝利までの最多騎乗記録となった。
レース後に行われた記者会見で福永騎手は「騎手でダービーは勝てないのかと思っていた。調教師になって勝つしかないぐらいに考えていた」と話した。もっとも惜しかったのは2013年のエピファネイアだった。ゴール前まで優勝圏内にいたが、最後はキズナの末脚に屈し、1/2馬身差の2着に終わっていた。
福永騎手の父洋一氏は数々の名騎乗により「天才騎手」と呼ばれた。その洋一氏は落馬事故で騎手引退に追い込まれた。この天才騎手はダービーと縁がなかった。ダービー制覇は親子2代にわたる「福永家の悲願」だったという。
日本の「ダービージョッキー」と言えば武豊騎手(49)だ。1998年にスペシャルウィークで初優勝を果たすと、翌1999年にはアドマイヤベガに騎乗して2連覇を達成。2002年にタニノギムレット、2005年にディープインパクト、2013年にキズナとその後も白星を積み重ねた。29回の騎乗で計5勝はぶっちぎりの単独首位。2位は13人がひしめく2勝だから、その好成績は圧倒的だ。その武豊騎手をもってしても初勝利までは10戦を要したのだからダービーを勝つことのむずかしさは想像できるだろう。
本場英国のダービーで最多勝を誇るのはレスター・ピゴットである。その勝利数は9。1954年、18歳のピゴットはネバーセイダイに騎乗して初優勝を果たすと、1983年、47歳の時にティノーソで9度目の優勝を達成した。生涯のダービー騎乗回数は36回。最後の騎乗は1994年、58歳の時だった。
日本ダービーの10日後、6月6日に東京・大井競馬場では第64回東京ダービーが行われた。レースはゴール前で4頭が横並びになる激戦となった。最後に抜け出し、優勝をさらったのは2番人気のハセノパイロだった。
わずかクビ差でハセノパイロに続いたのが6番人気のクリスタルシルバー。その背中にいたのは61歳の的場文男騎手だった。「大井の帝王」と呼ばれ、史上2人目の通算7,000勝を達成したベテランだ。大井の七不思議と言われるのが、的場騎手の東京ダービー未勝利だ。今年のクリスタルシルバーで2着は10度を数えることになったが、37回の出場でいまだ頂点に立っていない。
かつて中央競馬で華麗なテクニックを披露し、「ミスター競馬」と呼ばれたのが野平祐二騎手である。調教師になってからは史上最強馬と呼ばれたシンボリルドルフを育てた。その野平騎手がついに日本ダービーを勝つことができなかった。挑戦すること25回。1度4着になったことがあるだけで、残る24回はいずれも6着以下という結果だった。東京ダービーの的場騎手と並ぶ日本ダービーの七不思議といってもいい。
今年の日本ダービーで僕は本気馬券とは別にゴーフォザサミットの単勝馬券を購入して蛯名正義騎手の優勝を願った。野平祐二騎手と並ぶ25回目のダービー出場で初優勝を狙っていた。結果は7着。福永騎手の悲願がかなった一方で、蛯名騎手の悲願は来年に持ち越された。
1996年にデビューした福永騎手は3年目の1998年にダービー初騎乗を果たした。コンビを組んだのはキングヘイロー。ダンシングブレーヴ(USA)産駒で前年の10月にデビューし、3連勝で東京スポーツ杯3歳S(当時)を制し、年が明けてからも、弥生賞3着、皐月賞2着とクラシック戦線の王道を歩んだ。ダービーでもスペシャルウィークに次ぐ2番人気の支持を受けていた。しかし結果は14着。福永騎手の初めてのダービーは悔しいものになった。
その後、福永騎手は2000年、2001年にも出場し、2003年からは16年連続でダービーに顔を出してきた。ワグネリアンでの初優勝まで19回の騎乗を重ねた。これは1993年にウイニングチケットで優勝した柴田政人騎手と並ぶ初勝利までの最多騎乗記録となった。
レース後に行われた記者会見で福永騎手は「騎手でダービーは勝てないのかと思っていた。調教師になって勝つしかないぐらいに考えていた」と話した。もっとも惜しかったのは2013年のエピファネイアだった。ゴール前まで優勝圏内にいたが、最後はキズナの末脚に屈し、1/2馬身差の2着に終わっていた。
福永騎手の父洋一氏は数々の名騎乗により「天才騎手」と呼ばれた。その洋一氏は落馬事故で騎手引退に追い込まれた。この天才騎手はダービーと縁がなかった。ダービー制覇は親子2代にわたる「福永家の悲願」だったという。
日本の「ダービージョッキー」と言えば武豊騎手(49)だ。1998年にスペシャルウィークで初優勝を果たすと、翌1999年にはアドマイヤベガに騎乗して2連覇を達成。2002年にタニノギムレット、2005年にディープインパクト、2013年にキズナとその後も白星を積み重ねた。29回の騎乗で計5勝はぶっちぎりの単独首位。2位は13人がひしめく2勝だから、その好成績は圧倒的だ。その武豊騎手をもってしても初勝利までは10戦を要したのだからダービーを勝つことのむずかしさは想像できるだろう。
本場英国のダービーで最多勝を誇るのはレスター・ピゴットである。その勝利数は9。1954年、18歳のピゴットはネバーセイダイに騎乗して初優勝を果たすと、1983年、47歳の時にティノーソで9度目の優勝を達成した。生涯のダービー騎乗回数は36回。最後の騎乗は1994年、58歳の時だった。
日本ダービーの10日後、6月6日に東京・大井競馬場では第64回東京ダービーが行われた。レースはゴール前で4頭が横並びになる激戦となった。最後に抜け出し、優勝をさらったのは2番人気のハセノパイロだった。
わずかクビ差でハセノパイロに続いたのが6番人気のクリスタルシルバー。その背中にいたのは61歳の的場文男騎手だった。「大井の帝王」と呼ばれ、史上2人目の通算7,000勝を達成したベテランだ。大井の七不思議と言われるのが、的場騎手の東京ダービー未勝利だ。今年のクリスタルシルバーで2着は10度を数えることになったが、37回の出場でいまだ頂点に立っていない。
かつて中央競馬で華麗なテクニックを披露し、「ミスター競馬」と呼ばれたのが野平祐二騎手である。調教師になってからは史上最強馬と呼ばれたシンボリルドルフを育てた。その野平騎手がついに日本ダービーを勝つことができなかった。挑戦すること25回。1度4着になったことがあるだけで、残る24回はいずれも6着以下という結果だった。東京ダービーの的場騎手と並ぶ日本ダービーの七不思議といってもいい。
今年の日本ダービーで僕は本気馬券とは別にゴーフォザサミットの単勝馬券を購入して蛯名正義騎手の優勝を願った。野平祐二騎手と並ぶ25回目のダービー出場で初優勝を狙っていた。結果は7着。福永騎手の悲願がかなった一方で、蛯名騎手の悲願は来年に持ち越された。