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第35回 北の踊り子

2014.02.12
 ノーザンダンサー(CAN)が米国のケンタッキー・ダービーで優勝したのは今からちょうど50年前の1964年だった。チャーチルダウンズ競馬場の10ハロン(約2000メートル)を当時のレコードタイムである2分0秒0で駆け抜けた。
 3冠制覇こそ逃したが、18戦14勝という立派な成績を残し、競走馬としても十分に優秀だったノーザンダンサーではあるが、その名を不滅のものにしたのは種牡馬としての実績だった。

 火付け役になったのは英国で2000ギニー、ダービー、セントレジャーの3冠を制したニジンスキー(CAN)だ。ノーザンダンサーの2年目の産駒として1967年に生まれ、2歳の時に8万4,000ドル(当時のレートで約3,000万円)の価格で落札された。アイルランドのビンセント・オブライエン厩舎のもとに送られて、デビューから連戦連勝の白星街道を歩んだ。そして無敗のまま3冠馬に輝いた。英国の3冠馬はニジンスキー以降、現在まで現れていない。

 ノーザンダンサーはニジンスキー以降も次々と名馬を送り出した。ザミンストレル(CAN)が英、愛の両ダービー馬になり、セクレト(USA)(本邦輸入種牡馬)も英ダービーを制した。セクレトが英ダービー馬になった1984年はノーザンダンサーの当たり年になった。エルグランセニョール(USA)が英2000ギニーと愛ダービーに勝ち、サドラーズウェルズ(USA)が愛2000ギニー、牝馬のノーザントリック(USA)は仏オークスで優勝した。

 1965年に1万ドルから始まったノーザンダンサーの種付料は1985年には95万ドルにまで高騰した。「ノーザンダンサーの血の一滴はダイヤモンドの1カラットよりも価値がある」とか「世界には2種類のサラブレッドしかいない。ノーザンダンサー系とそれ以外だ」という大げさな表現がされたのはこのころだ。

 当然のように、日本にもノーザンダンサーの波が押し寄せた。ノーザンダンサーの息子たちが続々と日本に輸入され、ほとんどが種牡馬になった。ノーザンアンサー(CAN)、ヴァイスリーガル(CAN)、ミンスキー(CAN)、ナイスダンサー(CAN)、シャンペンチャーリー(USA)、エリモシブレー(USA)、フレアリングダンサー(CAN)、ノーザリー(USA)、ノースオブザロー(USA)、トリプルオプティミスト(USA)、ルボデュール(USA)、ノーザンディクテイター(USA)、オフィスダンサー(USA)、コリムスキー(USA)、サドンソー(CAN)、トライマイベスト(USA)、スイフトスワロー(USA)、ロイヤルノーザンⅡ(CAN)、リーガルステップ(USA)、サーモンリープ(USA)、セクレト、グロウ(USA)、シェルシュールドール(USA)、ワッスルタッチ(USA)、ノーザンボーイ(USA)、パレスダンサー(USA)、タモノダンサー(CAN)など20頭を超え、この中にノーザンテースト(CAN)が含まれていた。

 ノーザンテーストは日本競馬を大きく変えた。1982年から11年連続でJRAのリーディングサイアーに輝き、日本ダービー馬ダイナガリバーなどを送り出した。ブルードメアサイアーとしての影響力も絶大で1991年から15年連続してJRAで首位の座を守った。ダイワメジャー、ダイワスカーレットの兄妹やエアグルーヴの活躍の背景にはノーザンテーストの力があった。

 1991年のJRA種牡馬順位は1位ノーザンテーストのほか3位モガミ(FR)、4位マルゼンスキー、6位アンバーシャダイ、9位ホリスキー、10位ラッキーソブリン(USA)とノーザンダンサー系が上位10頭のうち6頭を占めた。しかし、それから22年後の2013年はクロフネ(USA)が10位に踏ん張っているのみだ。

 血統の変化は本当に速い。わずか20年あまりで勢力図は一変する。
 僕が競馬記者になった1980年代前半、ノーザンテーストの台頭はあったにせよ、日本の生産界をリードしていたのはテスコボーイ(GB)を中心にしたプリンスリーギフト系だった。それが10年後にはノーザンダンサー系に取って代わられ、さらに20年後にはサンデーサイレンス系が栄華を極めている。
 20年後、サンデーサイレンス系はどういう形で残っているだろうか。
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