烏森発牧場行き
第272便 絵を描く
2017.08.22
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私は競馬場へ行くのと同じくらい、美術館へ行くのが好きだ。絵を見ている時間が、私の幸せなのだろう。
ガキのころから私は、どうして自分が絵を上手に描く人間に生まれてこなかったのかと嘆いた。誰かに嘆くわけではなく、自分に向けて嘆くのだが、その嘆きは年老いた今も消えていない。
生まれ変わったら、なんとしても絵を上手に描く人間に生まれたい。そんなふうに思い続けているものだから、上野へ絵を見に行ったとき、東京芸術大学の前まで行って門札を触ってみたり、芸大の昔からある地下食堂でビールをのんだりもする。絵が描ける人間に憧れているのだ。
しかし、最近、じいさんになって、冗談を言いあってきた友だちが、それこそ次から次にというふうにこの世から消えてしまうと、家でひとりで酒をのむことが多くなった。
そんなとき、「あらら、おれ、絵を描いてる。頭のなかにというか、心のなかにというか、自分のどこかに絵を描いてる」と感じるのだ。
そこは北海道浦河町野深の荻伏牧場。外は雪。日暮れて電気がついた居間に、斉藤卯助さんと武田文吾さんがいて、お茶をのんでいる。
そのころ卯助さんは病気のせいで喋るのが不自由になっていて、誰かが何かを言い、その発言が気にいらないと、右の拳をテーブルなどに執拗に叩きつけた。
武田文吾さんが何を言ったのだろう。斉藤卯助さんの拳が動き続けた。しかし、そのあと武田文吾さんが何を言ったのか、こんどは斉藤卯助さんが口をあけて笑った。
その晩から20年も昔、荻伏牧場の斉藤卯助さんが武田文吾調教師を、同じ浦河の松橋吉松牧場へ連れて行き、血統名を松風という子馬を見せたのだ。骨格のたくましさに見惚れた武田文吾調教師は、血統の話をするうち、その子馬の曽祖母のバッカナムビューチーに、騎手時代に乗ってレースをしていて、縁も感じて松風を手元に置こうと決めた。
松風が、のちのシンザンである。私は卯助さんと文吾さんの近くになんとなく座っていて、なんとなくコップ酒をのんでいた。
名馬シンザンに関わった二人の男、もう若くなくなって電燈の下で時間をつぶしている。思い出として私に残っている光景だ。
私は酒をのみながら、その光景を、頭にか心にか描き、その絵に「卯助さんと文吾さん」という題をつけた。
ある晩にはグラスの酒に、松山吉三郎さんが映った。フェアーウインとダイナガリバーで、二度ダービートレーナーに輝いた松山吉三郎さんが調教師を引退したあと、東府中の家を訪ねたことがあった。
「勝ったの負けたのの生活がなくなって、さびしくて仕方がないだろうと、よく言われるんだけど、勝ち負けのない生活が、こんなにいいもんだとは知らなかったなあ。
朝、府中の森公園へ散歩に行くのよ。ベンチとかで、知らないじいさんとかばあさんと世間話をするわけ。誰もわたしが調教師をしてた松山だなんて知らないから、競馬の話なんか出ないよ。
普通の生活が、こんなにいいもんだとは思わなかったなあ。勝ち負けが重要だった生活は、おもしろいといえばおもしろいんだけど、変な生活だったね。
調教師が終わって、美浦を離れて、まいったなあというのが、ひとつある。
それはね、よく見る夢なんだ。馬房のなかに入ったわたしにね、馬が体を寄せてきて、わたしに怒って、わたしを押し殺そうとするみたいな夢なんだよ。
こっちはね、調教師をして、高い金を出してもらった馬を、なんとしても勝たせたい。
ところが、馬の能力というのも、ときには見て取れるもので、この馬は、このあたりが限度だと分かることがあるのさ。
それでも、高い金を出してくれた馬主さんに喜んでもらいたくて、ダメな馬にも、もう少しなんとか力をつけてほしいと、スパルタの調教をしちゃうんだ。
馬にしてみれば、精一杯で、これ以上はムリだよと思ってるのに、この調教師は鬼だって恨んでな。
それで馬がわたしを殺そうとするわけ。目をさまして、ときどき、ほんとうに済まなかったって、あやまってる」
と松山吉三郎さんは語り、しばらく姿を消したあと、ダンボール函をかかえてきた。
「これ、まだ騎手だったころから、調教師をやめるときまで、日記のようなものを書いてた」
何十冊か何百冊かの、同じ形の、表紙が同じ色の手帳がダンボールに詰まっていた。
その手帳のひとつを手にした松山吉三郎さんを、私は、頭にか心にか絵にした。絵の題は「吉三郎さん。」
「今井寿恵さん」という題の絵も私は描いている。
ギャロップダイナがドーヴィル競馬場でのジャック・ル・マロワ賞に挑戦した夏、社台ファームの吉田善哉さん、矢野進調教師、柴崎勇騎手、写真家の今井寿恵さんたちと、ノルマンディホテルに私も宿泊していた。
よく晴れた朝、今井さんと矢野進さんと私は、ドーヴィル競馬場の芝コースを歩かせてもらったあと、競馬場の近くの、屋外のコーヒーショップのテラスに座っていた。
おだやかな光と青空に包まれるようにしてコーヒーをのんでいる私たちに鐘の音が訪ねてくる。
「教会の鐘の音」
と今井寿恵さんが言い、次の音を待つ表情になり、鐘の音が流れてくると、
「ありがとう」
とにっこり笑った。
「ニジンスキーと出会って、馬を撮るようになったのだけど、今の鐘の音が聞こえてきたのも、ニジンスキーが贈ってくれたのかもしれないって思うのね。
そんふうに感じて、ニジンスキーの眼を思いかえしていると、けっこうわたしも幸せだなあと、うれしくなるの」
と静かに語っていた今井寿恵さんを描いたのだ。
ガキのころから私は、どうして自分が絵を上手に描く人間に生まれてこなかったのかと嘆いた。誰かに嘆くわけではなく、自分に向けて嘆くのだが、その嘆きは年老いた今も消えていない。
生まれ変わったら、なんとしても絵を上手に描く人間に生まれたい。そんなふうに思い続けているものだから、上野へ絵を見に行ったとき、東京芸術大学の前まで行って門札を触ってみたり、芸大の昔からある地下食堂でビールをのんだりもする。絵が描ける人間に憧れているのだ。
しかし、最近、じいさんになって、冗談を言いあってきた友だちが、それこそ次から次にというふうにこの世から消えてしまうと、家でひとりで酒をのむことが多くなった。
そんなとき、「あらら、おれ、絵を描いてる。頭のなかにというか、心のなかにというか、自分のどこかに絵を描いてる」と感じるのだ。
そこは北海道浦河町野深の荻伏牧場。外は雪。日暮れて電気がついた居間に、斉藤卯助さんと武田文吾さんがいて、お茶をのんでいる。
そのころ卯助さんは病気のせいで喋るのが不自由になっていて、誰かが何かを言い、その発言が気にいらないと、右の拳をテーブルなどに執拗に叩きつけた。
武田文吾さんが何を言ったのだろう。斉藤卯助さんの拳が動き続けた。しかし、そのあと武田文吾さんが何を言ったのか、こんどは斉藤卯助さんが口をあけて笑った。
その晩から20年も昔、荻伏牧場の斉藤卯助さんが武田文吾調教師を、同じ浦河の松橋吉松牧場へ連れて行き、血統名を松風という子馬を見せたのだ。骨格のたくましさに見惚れた武田文吾調教師は、血統の話をするうち、その子馬の曽祖母のバッカナムビューチーに、騎手時代に乗ってレースをしていて、縁も感じて松風を手元に置こうと決めた。
松風が、のちのシンザンである。私は卯助さんと文吾さんの近くになんとなく座っていて、なんとなくコップ酒をのんでいた。
名馬シンザンに関わった二人の男、もう若くなくなって電燈の下で時間をつぶしている。思い出として私に残っている光景だ。
私は酒をのみながら、その光景を、頭にか心にか描き、その絵に「卯助さんと文吾さん」という題をつけた。
ある晩にはグラスの酒に、松山吉三郎さんが映った。フェアーウインとダイナガリバーで、二度ダービートレーナーに輝いた松山吉三郎さんが調教師を引退したあと、東府中の家を訪ねたことがあった。
「勝ったの負けたのの生活がなくなって、さびしくて仕方がないだろうと、よく言われるんだけど、勝ち負けのない生活が、こんなにいいもんだとは知らなかったなあ。
朝、府中の森公園へ散歩に行くのよ。ベンチとかで、知らないじいさんとかばあさんと世間話をするわけ。誰もわたしが調教師をしてた松山だなんて知らないから、競馬の話なんか出ないよ。
普通の生活が、こんなにいいもんだとは思わなかったなあ。勝ち負けが重要だった生活は、おもしろいといえばおもしろいんだけど、変な生活だったね。
調教師が終わって、美浦を離れて、まいったなあというのが、ひとつある。
それはね、よく見る夢なんだ。馬房のなかに入ったわたしにね、馬が体を寄せてきて、わたしに怒って、わたしを押し殺そうとするみたいな夢なんだよ。
こっちはね、調教師をして、高い金を出してもらった馬を、なんとしても勝たせたい。
ところが、馬の能力というのも、ときには見て取れるもので、この馬は、このあたりが限度だと分かることがあるのさ。
それでも、高い金を出してくれた馬主さんに喜んでもらいたくて、ダメな馬にも、もう少しなんとか力をつけてほしいと、スパルタの調教をしちゃうんだ。
馬にしてみれば、精一杯で、これ以上はムリだよと思ってるのに、この調教師は鬼だって恨んでな。
それで馬がわたしを殺そうとするわけ。目をさまして、ときどき、ほんとうに済まなかったって、あやまってる」
と松山吉三郎さんは語り、しばらく姿を消したあと、ダンボール函をかかえてきた。
「これ、まだ騎手だったころから、調教師をやめるときまで、日記のようなものを書いてた」
何十冊か何百冊かの、同じ形の、表紙が同じ色の手帳がダンボールに詰まっていた。
その手帳のひとつを手にした松山吉三郎さんを、私は、頭にか心にか絵にした。絵の題は「吉三郎さん。」
「今井寿恵さん」という題の絵も私は描いている。
ギャロップダイナがドーヴィル競馬場でのジャック・ル・マロワ賞に挑戦した夏、社台ファームの吉田善哉さん、矢野進調教師、柴崎勇騎手、写真家の今井寿恵さんたちと、ノルマンディホテルに私も宿泊していた。
よく晴れた朝、今井さんと矢野進さんと私は、ドーヴィル競馬場の芝コースを歩かせてもらったあと、競馬場の近くの、屋外のコーヒーショップのテラスに座っていた。
おだやかな光と青空に包まれるようにしてコーヒーをのんでいる私たちに鐘の音が訪ねてくる。
「教会の鐘の音」
と今井寿恵さんが言い、次の音を待つ表情になり、鐘の音が流れてくると、
「ありがとう」
とにっこり笑った。
「ニジンスキーと出会って、馬を撮るようになったのだけど、今の鐘の音が聞こえてきたのも、ニジンスキーが贈ってくれたのかもしれないって思うのね。
そんふうに感じて、ニジンスキーの眼を思いかえしていると、けっこうわたしも幸せだなあと、うれしくなるの」
と静かに語っていた今井寿恵さんを描いたのだ。