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第301便 けやきの下で

2020.01.14
 東京競馬場に着くと、第4R3歳以上1勝クラス、ダート1600に出走する16頭がパドックを歩いていた。
 パドックで見ても何も分からない私なのだが、競馬場へ来たら殆どのレースのパドックを見ている。パドックで馬を見ているのが好きなのだ。すばらしい景色で、好きな絵で、それを見ているのが幸せなのだ。
 着いてすぐのレースは、1番人気馬から上位4頭への馬単を4点買うのが、この数年の私の決めごとである。
 1階スタンドのゴールポストが真正面の位置に立ってレースを見る。1番人気のクリストフ・スミヨン騎乗のリンガスビンゴがしっかり追いこんで勝ち、2着は5番人気の横山典弘騎乗のヨクエロマンボ。
 「おい、当たっちまったぞ」と自分に言う。それも4点買ったうち、いちばん配当の高いやつ。まいったなあ。おれがこんなに幸運でいいのか。フィッと、口笛が出た。
 メモリアルスタンドの4階へ行く。フロアの窓から道路をへだてた装鞍所を眺める。木立ち、鞍をつけた馬を引く厩務員。その光景が私の好きな絵で、それを見にそこへ行くのが、競馬場へ行ったときの私の行事である。
 7階へ行く。年に一度、ジャパンCの日に、JRA馬事文化賞受賞者が招待されるのだ。「けやき」という部屋に私の名札を置いたテーブルがある。
 ゴンドラに出て、競馬場のコース、空、人を見る。第4Rの馬単が当たったのも幸運だが、昨日の雨がやんで、ジャパンCの日に晴れたのも幸運だなあと思う。
 いつも一緒にジャパンCを楽しんでいた山野浩一さんも死んじゃったんだよなあ、と競馬場の空へ言う。どうしておれはいるんだろう、と私は競馬場の向こうの高速道路を走る車に聞く。
 東京の第5Rと第6Rの馬券はハズレ。べつに感想はない。60年という歳月、馬券を買っているのだ。言ってしまえば、ハズレる馬券を買うのがおれの人生だと思いながら、1階へ降り、けやきの木が並んだ通りに行く。
 葉が色づいて、なんてきれいなんだろう。ジャパンCというと、このけやきの通りのベンチに腰かけ、しばらくぼんやりするのが、それもまた私の行事のようなものだ。

 どこのベンチもテーブルも人がいて、立ち止まってきょろきょろっとしていると、白髪の老人が、「ここ、いいよ」と私に向けて手の動きに言わせた。
 老人は少年といて、おにぎりを食べていた。
 「すみません」
 私が頭を下げ、少年が位置をずらした。
 「ちょっと、見てきていい」
 と少年が言う。
 「ここに戻ってこいよ。ずっといるから」
 そう老人が言い、少年はパドックの方へと歩いて行った。
 「お孫さんですか?」
 私が聞いた。
 「そう、中学生。わたしの足が頼りないから、婆さんが、じいちゃんについてってくれないかって頼んだら、ぼくも競馬を見てみたいって」
 「どちらから?」
 「松戸。遠いのよ。ま、大変なんだけど、今日、ここに来るのは、わたしの仕事みたいなもんで」
 と老人が言った「仕事みたいなもんで」が気になって私は、老人と話をしたくなった。
 寒くないので、けやきの通りに、のんびりした空気がひろがっている。
 「きれいだなあ、けやきの紅葉。そのなかに、じいちゃんと孫。すばらしい」
 そう私が言い、
 「コンビニで赤飯のおにぎり、買いすぎた。食べないかい」
 と老人が言う。食事は7階で済ませてきたが、おにぎりを貰ったほうが老人との距離が縮まると思ったので、
 「いいの?うれしい」
 と私は赤飯のおにぎりを受けとった。
 「お孫さん、迷子にならないかな」
 「大丈夫。ケイタイ持ってるから」
 「競馬、長いの?昔から?」
 「いや、息子がな」
 と老人は言って、黙った。
 老人は横に立てた杖を置きなおしたり、足もとを見たり、遠くを見たり、水をのんだりした。
 「息子さんも来てるの?」
 と私が聞いた。
 「死んじまったのよ、息子が」
 言って老人は空を見上げるようにした。
 何か言わぬほうがいい。老人が何か言いだすのを待ったほうがいいと、私も空を見上げた。
 「去年の暮れに身体が変だって言って、入院して、今年の2月に死んじまった。大腸ガン。
 息子はおれと同じ大工で、遊びは競馬と酒だけ。おれは競馬も酒もダメで、変なもんだった。
 息子がよく行ってた飲み屋に行ってみたのさ。息子のことを話したくて。
 そしたら、息子と、休みっていうと中山競馬場へいっしょに行ってたという人が、息子がね、ダービーとジャパンCだけは府中まで行ってたと言うのよ。
 で、わたし、皐月賞の日に中山へ行ったの、息子の写真を持って。それからダービーには府中まで行くって決めてたけど、ばあさんの具合が悪くなってダメだった。
 で、今日、来たってわけさ。息子が来てたっていうジャパンCに」
 「写真で連れてきた?」
 「そう」
 老人はズボンのポケットから財布を出し、そこから名刺の大きさの写真を出して、私に見せた。
 坊主頭の男がどこかのテーブルで、ビールのジョッキを持ちあげて笑っている。
 「息子さんいくつだったの?」
 「ちょうど、50。おれが77まで生きてるのにな」
 と老人は少し宙を見てから水をのんだ。
 私は7階に戻り、ゴンドラの椅子に座った。第9Rシャングリラ賞の出走馬が返し馬で走っている。身をのりだして1階スタンドの人たちを眺め、ひとりひとりにドラマがあるのだと思った。
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