烏森発牧場行き
第306便 余計な心配
2020.06.11
Tweet
私が買う馬券はめったに当たらない。だから、間違ったように当たると、いっぺんに幸せになる。その、いっぺんに幸せになる、というのが忘れられなくて、60年以上も馬券とつきあっているのだろう。
言わせてもらえば、馬券を買えないほどに貧しくはなるまいぞ。そう思って、必死に働いてきたつもりだ。馬券が私を、叱咤激励し続けてくれたのである。
競馬場でいっしょに馬券をやる若い奴が、
「よくもそんなにハズれ続けて、何十年も馬券をやってるもんですね。心配だな」
と私を笑うことがあり、
「余計な心配するなよ。本当に心配なら、おれに当たり馬券を教えてみろ」
そう私は笑いかえすしかない。
余計な心配といえば、最近、それを若い奴から言われてしまったことがあった。
私は電話やインターネット投票をしないで、競馬場かウインズか、行けない時にはそこにいる友だちにケイタイで馬券を頼む。だから無観客競馬となり、ウインズ休止となってから、電話購入している若い友だちに金をあずけて、イソーローで買ってもらっているのだ。
その若い友だちに、
「ずうっと無観客競馬が続いていて、おれ、悲しくって、空しくってたまらないんだ。おれみたいなじいさんは、客のいない競馬場のレースは競馬じゃないしな」
そう私が言うと、
「そうですか。ぼくにはわからない。ぼくは競馬を始めて5年になるけど、ぼくと競馬の関係は、何も変わりないです」
というのが、カード会社に勤務する30歳の彼の返事だった。
「そうなのか。君みたいな人のほうが、おれみたいな奴より、圧倒的に多いんだよね。
うーん、なんだか心配だな」
と言った私は、
「それって、余計な心配じゃないですか」
と彼に言われてしまったのだった。
そうそう、もうひとつ、余計な心配ですと言われたのを思いだした。
製薬会社勤務と石油会社勤務の、どちらも若い競馬好きと、中山競馬場の帰りに船橋の居酒屋で飲んだときのこと。
「ま、たまたま自分の人生の都合でそうなったのだけど、おれ、競馬を、競走馬を育てる牧場の、いわば現場とのつながりで見てることが多いんだよね。
競馬場でパドックを歩き、ゲートに入ってレースをする。いわば、それは表舞台で、きびしい冬の長い北海道での、牧場の現場のことが、競馬マスコミで、昔から見ると、ずいぶん消えてしまってるんだ。
馬券のことだけで競馬とつきあってるというのは、おれからすると、なんだかつまらない。
現場のことなんか関係ないよって、そういうことになってきた。おれは心配だ」
そう私が言ったとき、
「ぼくらはレースだけを見ればいいんで」
とひとりが言い、
「どうして心配なのかわからない。余計な心配ですよ」
ともうひとりが言った。
新型コロナウイルスのために緊急事態宣言となり、誰もがステイホームを守らなければならない。競馬と、どこかの酒場で冗談を言うのが私の人生の頼りなのだが、夜に自分の部屋を薄闇にし、好きな曲をレコードで流し、ひとり酒で酔う 日々になった。
「オンライン、オンライン、オンライン」
とどこかから聞こえてくる。
オンライン会議、オンライン飲み会、オンライン結婚式、オンライン物産展、オンライン葬儀、オンライン帰省、オンライン見舞いなどなど、いろいろに聞かされ、いろいろに目に入ってくる。
「オンラインって何?」
「知らないの?」
「知らない」
「大丈夫?生きていける?心配」
「うるさい。余計な心配だ」
とひとり酒しながらの自分と自分の会話だ。
しばらく薄闇を見つめて、静かなピアノ曲を聴きながら、今年もオークス、ダービーとなるのだが、競馬場に客がいないのだ、とあらためて思うと、どうしてか私の脳裡には、馬産地の景色がひろがり、オークスやダービーの出走馬を生産した人たちは、やはり客であふれる競馬場で見たかったと思うよね、と考えた。
「おれ、どうしてすぐに、競馬というと牧場のことを考えるのだろう」
と私は自分に聞いてみる。
その思考の出発は、1967(昭和42)年ごろだ。
私は30歳、東京の宝石会社に勤務し、札幌支店に転勤して、北海道のあちこちへ営業に動いた。
札幌から苫小牧へ、そして室蘭へ向かう列車が社台や白老へと通過するあたり、馬のいる牧場のひろがりが窓の向こうに現れた。
「おいっ」
と私は自分に声をかけた。もう10年も競馬場へは行っていたが、牧場の景色は知らなかった。
休日になると私は、3歳の娘を連れて社台ファーム白老牧場へ出かけ、半日を過ごすようになった。放牧地や厩舎にいる馬たちの孤独と向き合っているのが私の幸せになり、飽きなかった。
1968年の夏、牧場の人が、
「この馬、桜花賞で勝ったコウユウだよ」
と放牧地にポツンと1頭でいた馬のことを教えてくれた。桜花賞馬でも、やはり馬って孤独だな、と思ったのを私は忘れないでいる。
私は30歳代の後半は東京の医薬品問屋に勤務し、担当した地区に青森県上北郡があり、ダービー馬フェアーウインを生産した浜中牧場を、仕事の合間に歩かせてもらったり、そこでも馬の孤独とつきあうのがうれしかった。
そんなことから、私は競馬が好きな人と酒を飲んだりしているとき、つい牧場の話をしたくなってしまう。競馬は馬券だけじゃないんだと、つい余計な心配をしてしまうのである。
言わせてもらえば、馬券を買えないほどに貧しくはなるまいぞ。そう思って、必死に働いてきたつもりだ。馬券が私を、叱咤激励し続けてくれたのである。
競馬場でいっしょに馬券をやる若い奴が、
「よくもそんなにハズれ続けて、何十年も馬券をやってるもんですね。心配だな」
と私を笑うことがあり、
「余計な心配するなよ。本当に心配なら、おれに当たり馬券を教えてみろ」
そう私は笑いかえすしかない。
余計な心配といえば、最近、それを若い奴から言われてしまったことがあった。
私は電話やインターネット投票をしないで、競馬場かウインズか、行けない時にはそこにいる友だちにケイタイで馬券を頼む。だから無観客競馬となり、ウインズ休止となってから、電話購入している若い友だちに金をあずけて、イソーローで買ってもらっているのだ。
その若い友だちに、
「ずうっと無観客競馬が続いていて、おれ、悲しくって、空しくってたまらないんだ。おれみたいなじいさんは、客のいない競馬場のレースは競馬じゃないしな」
そう私が言うと、
「そうですか。ぼくにはわからない。ぼくは競馬を始めて5年になるけど、ぼくと競馬の関係は、何も変わりないです」
というのが、カード会社に勤務する30歳の彼の返事だった。
「そうなのか。君みたいな人のほうが、おれみたいな奴より、圧倒的に多いんだよね。
うーん、なんだか心配だな」
と言った私は、
「それって、余計な心配じゃないですか」
と彼に言われてしまったのだった。
そうそう、もうひとつ、余計な心配ですと言われたのを思いだした。
製薬会社勤務と石油会社勤務の、どちらも若い競馬好きと、中山競馬場の帰りに船橋の居酒屋で飲んだときのこと。
「ま、たまたま自分の人生の都合でそうなったのだけど、おれ、競馬を、競走馬を育てる牧場の、いわば現場とのつながりで見てることが多いんだよね。
競馬場でパドックを歩き、ゲートに入ってレースをする。いわば、それは表舞台で、きびしい冬の長い北海道での、牧場の現場のことが、競馬マスコミで、昔から見ると、ずいぶん消えてしまってるんだ。
馬券のことだけで競馬とつきあってるというのは、おれからすると、なんだかつまらない。
現場のことなんか関係ないよって、そういうことになってきた。おれは心配だ」
そう私が言ったとき、
「ぼくらはレースだけを見ればいいんで」
とひとりが言い、
「どうして心配なのかわからない。余計な心配ですよ」
ともうひとりが言った。
新型コロナウイルスのために緊急事態宣言となり、誰もがステイホームを守らなければならない。競馬と、どこかの酒場で冗談を言うのが私の人生の頼りなのだが、夜に自分の部屋を薄闇にし、好きな曲をレコードで流し、ひとり酒で酔う 日々になった。
「オンライン、オンライン、オンライン」
とどこかから聞こえてくる。
オンライン会議、オンライン飲み会、オンライン結婚式、オンライン物産展、オンライン葬儀、オンライン帰省、オンライン見舞いなどなど、いろいろに聞かされ、いろいろに目に入ってくる。
「オンラインって何?」
「知らないの?」
「知らない」
「大丈夫?生きていける?心配」
「うるさい。余計な心配だ」
とひとり酒しながらの自分と自分の会話だ。
しばらく薄闇を見つめて、静かなピアノ曲を聴きながら、今年もオークス、ダービーとなるのだが、競馬場に客がいないのだ、とあらためて思うと、どうしてか私の脳裡には、馬産地の景色がひろがり、オークスやダービーの出走馬を生産した人たちは、やはり客であふれる競馬場で見たかったと思うよね、と考えた。
「おれ、どうしてすぐに、競馬というと牧場のことを考えるのだろう」
と私は自分に聞いてみる。
その思考の出発は、1967(昭和42)年ごろだ。
私は30歳、東京の宝石会社に勤務し、札幌支店に転勤して、北海道のあちこちへ営業に動いた。
札幌から苫小牧へ、そして室蘭へ向かう列車が社台や白老へと通過するあたり、馬のいる牧場のひろがりが窓の向こうに現れた。
「おいっ」
と私は自分に声をかけた。もう10年も競馬場へは行っていたが、牧場の景色は知らなかった。
休日になると私は、3歳の娘を連れて社台ファーム白老牧場へ出かけ、半日を過ごすようになった。放牧地や厩舎にいる馬たちの孤独と向き合っているのが私の幸せになり、飽きなかった。
1968年の夏、牧場の人が、
「この馬、桜花賞で勝ったコウユウだよ」
と放牧地にポツンと1頭でいた馬のことを教えてくれた。桜花賞馬でも、やはり馬って孤独だな、と思ったのを私は忘れないでいる。
私は30歳代の後半は東京の医薬品問屋に勤務し、担当した地区に青森県上北郡があり、ダービー馬フェアーウインを生産した浜中牧場を、仕事の合間に歩かせてもらったり、そこでも馬の孤独とつきあうのがうれしかった。
そんなことから、私は競馬が好きな人と酒を飲んだりしているとき、つい牧場の話をしたくなってしまう。競馬は馬券だけじゃないんだと、つい余計な心配をしてしまうのである。