烏森発牧場行き
第305便 ウインズ休止
2020.05.14
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「あんなに競馬が好きだったのに、競馬のテレビをつけても、見ているんだかいないんだか、何も反応しないで、ただぼんやりしてるんです。
認知症っておそろしい。人間って、こんなふうにもなっちゃうんだって」
と電話をしてきた勇さんの奥さんが、
「ただね、昨日、三度くらい、ヨシカワ、ヨシカワって、わたしに言うの。
ヨシカワが、何、って聞いてみても、ただ黙って、話は続かないんです。
すみません、ほんとうに勝手なお願いなんですけど、いちど来ていただけないでしょうか。
よく、あの人、ヨシカワさんの話をしていて、何か、思いだしたりしたのかなあって」
そう言うのだった。
その電話を切ったあと私は、勇さんと仲よしの友治さんにケイタイをかけ、勇さんの妻の和江さんが電話で言ったことを伝えると、
「出来たら行ってやってくださいよ。何か、スイッチが入って、頭がまわりだすかもしれないし。
ほんとうに人間というのは、いつなんどき、どうなるか分からない。今年の正月だって一緒に飲んで、あのイサム馬券の話なんかしたんですよ。
それが2月に脳出血で倒れて、運よく退院できたのに意識が飛んじゃった。
ぜひ、会いに行ってやってください。そのときは、ぼくも一緒に行きますから」
という声が返ってきた。
元銀行員の勇さんも、元石油会社勤務の友治さんも77歳。ふたりはウインズ横浜での馬券仲間である。友治さんが電話で言ったイサム馬券というのは、そのときに私も一緒にいたのだが、2019年11月30日の中山競馬場での出来事だ。
一緒に出かけたのではなかったが、その日のメイン、11RステイヤーズSが終わったあと、人が少なくなった12Rのパドックへ私が行くと、勇さんと友治さんがいたのだった。ウインズ横浜でなしに、この二人に競馬場で会うのは不思議だった。
「楽しみにして来たのに、二人ともオケラ。最終レースでがんばってと思って」
と友治さんが言い、
「このままじゃ、帰りにビールものめない」
と勇さんが笑った。
三人で1階スタンドに腰かけ、15頭出走の3歳上2勝クラス、芝1200を見た。
「ひどいよね。1番人気のマーフィーの馬、まるでアウト」
と友治さんが馬券を握りつぶしたとき、
「すごいことが起きた」
と勇さんが馬券を見つめた。
友治さんと私が馬券を覗きこむと、3連単①―③―⑥を500円買っていて、的中なのだった。
「昨日、わたし、誕生日だったの。で、喜寿を自分で祝おうと思って、自分の名前のイサム、①―③―⑥を記念みたいに買った。どうせ当たらないと思って、ヤケクソにふざけて買った」
とふるえているような勇さんを、友治さんと私が抱きかかえるようにした。
3連単①―③―⑥の配当は11万6,510円。
数日して勇さん夫婦から、友治さん夫婦と私たち夫婦が、鎌倉の海辺のホテルのレストランでのフランス料理に招待をされた。
この3月、新型コロナウイルスの感染拡大で、競馬は無観客での開催になり、馬券購入は電話、ネットのみとなり、2月29日からウインズは休止が続いている。
「ウインズ。場外」と声にしてみるように思い、あちこちのウインズの建物を目に浮かべてみる。するとあらためて、おれの人生って、場外馬券売り場と、深い縁でつながってるなあと考えた。
その時々の住所や仕事の関係で、私が週末の半日を過ごした場外が変わった。
栗田勝騎乗のシンザンが三冠馬になった1964(昭和39)年ごろは水道橋の後楽園、ハイセイコーが人気の1973(昭和48)年ごろは銀座の場外、グリーングラスが菊花賞でテンポイントとトウショウボーイを負かした1976(昭和51)年ごろは、浅草か錦糸町が、いわば「おれの別荘」だった。
ほかに京都でバーテンをしていたころの京都場外。それに札幌で暮らしていたころの札幌場外も、いわば「おれの居場所」だったなあ。
ラッキールーラがダービーを勝った1977年には鎌倉市に転居していて、それからはウインズ横浜が「おれの庭」になり、それから43年ぐらいが過ぎている。
ウインズ横浜の近くに「サンパウロ」というコーヒー店があり、そこに集まる馬券仲間との週末が、いわば「おれの人生」だったと言えるかもしれない。
残念ながら「サンパウロ」は10年前だかに無くなってしまったが、そのころの仲間とのつきあいは、まだ続いていて、勇さんも友治さんも「サンパウロ仲間」なのだ。
あと3日で第80回桜花賞という日、私は友治さんと、大昔は根岸競馬場で、今は森林公園になっている近くの、勇さんの家へ行った。
応接間のソファで勇さんはテレビを見ていて、私と友治さんが近くに座っても、顔を向けたのだが、まったく無視という状態である。
「記憶の全部が消えてるのかなあ」
友治さんがひとりごとのように言い、
「普通に朝が来て、昼が来て、夜が来て、眠って、起きてということなんですよね」
と私が和江さんに聞き、
「そうなの。そうなんだけど、何もかもが、ちんぷんかんぷん」
と和江さんが仕方なさそうに笑った。
白髪の勇さんは長身で痩せがた。その外見には少しも変わりがない。
「あの、競馬の成績の、3連単①―③―⑥の新聞の切り抜きを財布に入れて持ってた。あれはどうしました」
「何度も見せてますけど、知らん顔」
と友治さんと和江さんが会話をした。
「コロナウイルス。コロナ、大変」
と私が勇さんに言ったのは、テレビでコロナウイルスのことが報道されているからだ。
「コロナ、何番線?」
と、勇さんの口がひらいた。
私は悲しかった。無観客の桜花賞も悲しい。ウインズ休止も悲しい。すべて悲しいと私は思った。
認知症っておそろしい。人間って、こんなふうにもなっちゃうんだって」
と電話をしてきた勇さんの奥さんが、
「ただね、昨日、三度くらい、ヨシカワ、ヨシカワって、わたしに言うの。
ヨシカワが、何、って聞いてみても、ただ黙って、話は続かないんです。
すみません、ほんとうに勝手なお願いなんですけど、いちど来ていただけないでしょうか。
よく、あの人、ヨシカワさんの話をしていて、何か、思いだしたりしたのかなあって」
そう言うのだった。
その電話を切ったあと私は、勇さんと仲よしの友治さんにケイタイをかけ、勇さんの妻の和江さんが電話で言ったことを伝えると、
「出来たら行ってやってくださいよ。何か、スイッチが入って、頭がまわりだすかもしれないし。
ほんとうに人間というのは、いつなんどき、どうなるか分からない。今年の正月だって一緒に飲んで、あのイサム馬券の話なんかしたんですよ。
それが2月に脳出血で倒れて、運よく退院できたのに意識が飛んじゃった。
ぜひ、会いに行ってやってください。そのときは、ぼくも一緒に行きますから」
という声が返ってきた。
元銀行員の勇さんも、元石油会社勤務の友治さんも77歳。ふたりはウインズ横浜での馬券仲間である。友治さんが電話で言ったイサム馬券というのは、そのときに私も一緒にいたのだが、2019年11月30日の中山競馬場での出来事だ。
一緒に出かけたのではなかったが、その日のメイン、11RステイヤーズSが終わったあと、人が少なくなった12Rのパドックへ私が行くと、勇さんと友治さんがいたのだった。ウインズ横浜でなしに、この二人に競馬場で会うのは不思議だった。
「楽しみにして来たのに、二人ともオケラ。最終レースでがんばってと思って」
と友治さんが言い、
「このままじゃ、帰りにビールものめない」
と勇さんが笑った。
三人で1階スタンドに腰かけ、15頭出走の3歳上2勝クラス、芝1200を見た。
「ひどいよね。1番人気のマーフィーの馬、まるでアウト」
と友治さんが馬券を握りつぶしたとき、
「すごいことが起きた」
と勇さんが馬券を見つめた。
友治さんと私が馬券を覗きこむと、3連単①―③―⑥を500円買っていて、的中なのだった。
「昨日、わたし、誕生日だったの。で、喜寿を自分で祝おうと思って、自分の名前のイサム、①―③―⑥を記念みたいに買った。どうせ当たらないと思って、ヤケクソにふざけて買った」
とふるえているような勇さんを、友治さんと私が抱きかかえるようにした。
3連単①―③―⑥の配当は11万6,510円。
数日して勇さん夫婦から、友治さん夫婦と私たち夫婦が、鎌倉の海辺のホテルのレストランでのフランス料理に招待をされた。
この3月、新型コロナウイルスの感染拡大で、競馬は無観客での開催になり、馬券購入は電話、ネットのみとなり、2月29日からウインズは休止が続いている。
「ウインズ。場外」と声にしてみるように思い、あちこちのウインズの建物を目に浮かべてみる。するとあらためて、おれの人生って、場外馬券売り場と、深い縁でつながってるなあと考えた。
その時々の住所や仕事の関係で、私が週末の半日を過ごした場外が変わった。
栗田勝騎乗のシンザンが三冠馬になった1964(昭和39)年ごろは水道橋の後楽園、ハイセイコーが人気の1973(昭和48)年ごろは銀座の場外、グリーングラスが菊花賞でテンポイントとトウショウボーイを負かした1976(昭和51)年ごろは、浅草か錦糸町が、いわば「おれの別荘」だった。
ほかに京都でバーテンをしていたころの京都場外。それに札幌で暮らしていたころの札幌場外も、いわば「おれの居場所」だったなあ。
ラッキールーラがダービーを勝った1977年には鎌倉市に転居していて、それからはウインズ横浜が「おれの庭」になり、それから43年ぐらいが過ぎている。
ウインズ横浜の近くに「サンパウロ」というコーヒー店があり、そこに集まる馬券仲間との週末が、いわば「おれの人生」だったと言えるかもしれない。
残念ながら「サンパウロ」は10年前だかに無くなってしまったが、そのころの仲間とのつきあいは、まだ続いていて、勇さんも友治さんも「サンパウロ仲間」なのだ。
あと3日で第80回桜花賞という日、私は友治さんと、大昔は根岸競馬場で、今は森林公園になっている近くの、勇さんの家へ行った。
応接間のソファで勇さんはテレビを見ていて、私と友治さんが近くに座っても、顔を向けたのだが、まったく無視という状態である。
「記憶の全部が消えてるのかなあ」
友治さんがひとりごとのように言い、
「普通に朝が来て、昼が来て、夜が来て、眠って、起きてということなんですよね」
と私が和江さんに聞き、
「そうなの。そうなんだけど、何もかもが、ちんぷんかんぷん」
と和江さんが仕方なさそうに笑った。
白髪の勇さんは長身で痩せがた。その外見には少しも変わりがない。
「あの、競馬の成績の、3連単①―③―⑥の新聞の切り抜きを財布に入れて持ってた。あれはどうしました」
「何度も見せてますけど、知らん顔」
と友治さんと和江さんが会話をした。
「コロナウイルス。コロナ、大変」
と私が勇さんに言ったのは、テレビでコロナウイルスのことが報道されているからだ。
「コロナ、何番線?」
と、勇さんの口がひらいた。
私は悲しかった。無観客の桜花賞も悲しい。ウインズ休止も悲しい。すべて悲しいと私は思った。