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第308便 ヒニチジョウ

2020.08.11
 「自分で電話が出来ればいいんですけど、最近は補聴器もつけたがらないから耳がダメで、それでわたしに電話してくれって言うんです。

 ほんと、すみません。わがままなんです。毎日のように、よしかわさんに電話しろって。」
 と世田谷の病院に長期入院しているKさんの奥さんから電話がくる。Kさんは86歳。
 私は見舞いに行く。牧場ツアーに行って放牧地の草の上で冗談を言いあったときのこと、競馬場で一緒にレースを見てたときのこと、競馬場の帰りの酒場で騒いだときのことなどを私は喋り、Kさんはメモ用紙に思い出の馬の名前、ステイゴールドと書き、うれしそうだった。
 「毎日毎日、病室の白い天井を見ていると、そこに馬がいたり、牧場の景色になったり、競馬場の指定席やレストランになったりします。
 いつだったか、ツアーで馬を見ながら、どうしてわたしの出資する馬はオープン馬とかになれないのかなあと嘆いたら、吉川さんが、それはあなたのせいでなくて、ご先祖さんに悪い人がいたんですよって言ったんです。
 出資した馬が運よく重賞を勝ったりする人は、きっとご先祖さんに良い人がいたんですって。
 その話、忘れられないです。自分の出資馬が負けると、きっと先祖に悪い奴がいたのだから仕方がないと思ったりして。
 そんなこんなを思いだしながら白い天井を見ているわけですが、もしこちらのほうに来られることがありましたら、ちょっとあいつの顔を見に行ってやろうかと、わたしのあつかましいお願いなのですが」
 と三鷹の病院に長期入院しているSさんから手紙がくる。Sさんは78歳。
 私は見舞いに行く。牧場ツアーの晩に苫小牧の酒場へ行き、そのときにいっしょだった競馬仲間たちのことを思いだしたり、Sさんが出資した馬、ペールギュントの話をしたりする。
 この何年か、よく私は、あちこちの病院へ見舞いに行く。それを自慢したくて見舞いのことを書くわけではなく、どうして私が、まるで仕事のように、あちこちの病院へ行くのか、自分のためにも書いてみようと思ったのだ。
 社台グループの馬主クラブ会員が参加する1泊2日の牧場見学ツアーというのが、6月に2度、9月に1度行われる。それが2020年6月、新型コロナウイルスのために中止になった。
 そのツアーに私が初めて参加したのは1984(昭和59)年6月で、クラブの会報誌に、その同行記を書き、現在も連載している。
 それから37年という年月、6月に2度、9月に1度を、私は欠かさずに参加しているので、今年の中止で6月に家にいるというのが、変な、不思議な気分だった。
 私の仕事部屋に、1984年から2019年までの、年に3度の牧場ツアーの参加者名簿が残されている。氏名、年齢、住所、電話番号、会員番号、職業、所有馬が記載されているわけだが、1987年までの名簿が、ガリ版刷りというのがなつかしい。
 社台ダイナースクラブの第1回募集馬は1980(昭和55)年で、翌年からの牧場ツアーはバス1台で始まったが、私が参加した1984年には、クラブのダイナカールがオークスを勝ったり、シャダイソフィアやアンバーシャダイの活躍もあって、ツアー参加者120名、バス3台となった。
 「おお、5台になったね」
 とバスの列を目にしてボスの吉田善哉が感動的につぶやいたのは、ダイナコスモスが皐月賞を、ダイナガリバーがダービーを勝った1986(昭和61)年だったか。それがどんどんと増え、平成5年あたりから、バス13台のツアーになっている。
 37年という歳月、その3度ずつの牧場ツアーに参加してきた私としては、その中止を記念してというのか、変な気分で、参加者名簿を読みかえしてみたりしたのだ。
 1984年度の参加者120人の平均年齢も電卓で計算してみる。46歳だった。37年が過ぎているからと、また計算してみると、そのバス3台の人の平均年齢は、只今83歳。おお、私の年齢と同じで笑った。
 幸運にも私は元気。不運にも病気で入院中の競馬友だちを見舞いに行くと、その殆どの人が、牧場ツアーで知りあっているので、バスの中での、社台ファームやノーザンファームの広い空の下での、夜の苫小牧の酒場での思い出が話に出てきて、年に1度の牧場ツアーというのが、その人の生活において、どんなに明るい、どんなに大切な、どんなに楽しみだったのかと、病院の帰りにひとりになった私は、そのことを一生懸命に考えた。

 2020年の5月から6月にかけて、たくさんのケイタイでの声、たくさんのメール、たくさんの手紙を私はもらった。牧場ツアーが中止で、
 「会うのを楽しみにしていたのになあ」
 という馬主クラブ会員からの便りである。
 もういちど言わせてもらうけれど、私は自慢をしたくて、この文章を書いているのではない。
 6月20日、土曜日、製薬会社勤務の54歳の男性と石油会社勤務の48歳の男性が私の家に来て、酒をのみながら競馬の話をし、牧場ツアー中止を残念がった。
 6月27日、土曜日、不動産業の60歳の男性と看護師の52歳の女性、外科医の58歳の男性が私の家に来て、酒をのみながら競馬の話をし、牧場ツアー中止を残念がった。
 7月5日、日曜日、家具職人の64歳の男性と出版社勤務の53歳男性、薬局を営む60歳の女性と高校教師の33歳の男性が私の家に来て、酒をのみながら競馬の話をし、牧場ツアーの話をした。
 年に1度、牧場見学ツアーに参加をする。全国各地からの、これまでの牧場ツアーで知りあった人との、牧場の草の上での昼食。おたがいの出資馬の運不運の泣き笑いの話。牧場の風に吹かれて、牧場の日差しに包まれ、募集馬たちを見つめる。牧場ではたらく人たちとの会話。バスの中でのおたがいの報告。夜の食事会でのクラブ仲間でのビール。あくる日の種牡馬たちとのひととき。
 ああ、牧場見学ツアーというのは、競馬と出会った人の日常を支える、重要な非日常の1泊2日なのだ。牧場の風に吹かれて誰もが、ヒニチジョウという名の馬を見つめるのだろう。
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