烏森発牧場行き
第342便 タカハシさん
2023.06.08
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やっとのこと、コロナから解放された2023年の4月から5月にかけての連休で、私にもうれしい集まりがあった。友だちのタカハシさんが40分の1口馬主として出資したリバティアイランドが桜花賞を勝ち、新宿の京王プラザホテルにある中華料理店で祝いの会をしたのだ。
その日、私が住む鎌倉も同じようだが、新宿にも外国人の旅行者がたくさんいた。新宿駅から京王プラザホテルへ行く道の雑踏で、たぶんアメリカ人だろう太ったオバさんが、「ハーイ、ワラッテ、イイカオシテ、ハーイ、ステキ」と日本語で言って仲間にカメラを向けていた。
オバさんと目が合った私は、思わず「日本語、スバラシイ」と声をかけてしまった。
「アリガト」と笑顔になったオバさんに、何かフザケテいないと生きているのがつまらない私は、京王プラザが見えているのに、「京王プラザ、どこか知ってる?」と聞いてみると、「アソコ」と空へそびえるホテルを指さすのだった。
ずいぶん早く着いてしまったので、ロビーの椅子に腰をおろし、「アソコ」だなんて、あのオバさん、よく出たよなあと感心しながら、タカハシさんとのつきあいのことも思いうかべた。
私がタカハシさんと初めて会ったのは、1986年、社台共有馬主クラブ会員が参加の牧場ツアーでだ。タカハシさんは45歳。私は49歳。
電気工事業を営むタカハシさんは府中市白糸台の住人で競馬場の近く、競馬に馴染むのは自然の成り行きだったろうが、共有クラブ会員になったのは、仕事に関係したシンボさんの誘いだったらしい。すでにシンボさんと私は酒友だちで、そこにタカハシさんも仲間入りしたのだ。
それからの長いクラブライフで、タカハシさんが出資馬のうちで忘れられないのは、サンデーサイレンスの娘、ハッピーパスだろう。テイエムオーシャンが勝った桜花賞でハッピーパスは4着だった。そのシーンを阪神競馬場で見たタカハシさんは、「GⅠを勝つまでは、どうしたって、共有馬主クラブをやめられないなあ」と思った。
タカハシさんにGⅠ勝利のチャンスが近づいた。それもハッピーパスの子で、父がキングカメハメハのコディーノが、2012年12月16日の朝日杯フューチュリティSで単勝1.3倍の1番人気だった。タカハシさんは仲よしのイチノセさんと中山競馬場にいた。イチノセさんが出資したロゴタイプも出走する。単勝34.5倍の7番人気だった。
勝ったのはロゴタイプで、コディーノはクビ差の2着だった。タカハシさんはどんなだったろう。イチノセさんはどんなだったろう。その後もふたりはずうっと仲よしでよかった。
ロゴタイプは皐月賞を勝ち、コディーノは3着だった。キズナが勝ったダービーではロゴタイプは5着、コディーノは9着だった。その年、ジェンティルドンナがジャパンCを連覇。タカハシさんをクラブに誘ったシンボさんの出資馬だった。
「わたしはGⅠを勝てない星に生まれたのかな」
とタカハシさんは思った。
2023年4月9日、第83回桜花賞。リバティアイランドは単勝1.6倍の1番人気だった。
「あっ、負ける」
と私はテレビの前で、4コーナーで殆ど最後方にいるリバティアイランドを見て思った。
「勝った。勝ちました。勝った」
とレース後30分ほどしてタカハシさんの声が阪神競馬場から飛んできた。
「口取り、した?」
「それが、抽せんにハズれて」
「残念」
と私が言った。コロナ禍でクラブ馬の口取りは10名と決められているのだ。
その晩も、まだ神戸のホテルにいたタカハシさんとスマホで話をした。
「大阪へ向かう新幹線でもコディーノの2着がちらついてきたし、競馬場でリバティを目で追ってても、直線に入ったあたり、またコディーノかって寒気が走って。
ゴール前は、もう息が止まりそうだった」
とタカハシさんは言い、そのあと、
「自分は、八十歳を過ぎてるんだって、あらためて、どうしてだか、思った」
と笑い声になった。
桜花賞祝勝会で中華料理店に集まったのは、タカハシさんも仲間の「友馬会」のメンバーだった。
「あの桜花賞に、友馬会は4頭出しだったんだよなあ」
とイチノセさんが言う。ユウコさんのコナコーストが2着、イトウさんのドゥアイズが5着、カズエさんのシングザットソングが7着だった。
友馬会のメンバーの殆どが、30代から、40代からの共有馬主クラブのメンバーで、いやあ、みんなおじいちゃん、おばあちゃんになっちゃったのだ。
「タカハシさんがGⅠを勝って、自分のことみたいにうれしい」
と言うイクコさんは93歳だ。ひとりで電車で狛江から来た。凄い。
「わたしが初めて持った馬はおぼえてる。コンキストダイナ。ノーザンテーストの牝だったわ。
勝てなかったのに、レースが終わったあと、いつも、勝ったみたいに威張って引きあげてくるから憎めなかった」
と笑うイクコさんは、コンキストダイナが走ってるころ、50代半ばだった。
「おやじ、連れてこないと怒るから」
とジェンティルドンナのシンボさんの息子のノリアキさんが、小さな額におさまったシンボさんの写真を持ってき て、リバティアイランドのレース写真の横に立て、コップに注いだビールを供えた。シンボさんが空へ旅立って数年が過ぎる。
「シンボさんには私のGⅠ勝ちを見せたかったなあ」
と言うタカハシさんに、イクコさんとカズエさんが花束を渡し、ロゴタイプのイチノセさんが乾杯の音頭を取り、サンデーサラブレッドクラブのタカシマさんが祝辞を言った。
「ありがとうございます。もう自分には、GⅠ勝利は縁がないなとあきらめて、もう八十歳も過ぎたし、クラブも引退だなあと思っていたところ、リバティアイランドが夢のように」
とタカハシさんは言い、言葉を詰まらせた。
その日、私が住む鎌倉も同じようだが、新宿にも外国人の旅行者がたくさんいた。新宿駅から京王プラザホテルへ行く道の雑踏で、たぶんアメリカ人だろう太ったオバさんが、「ハーイ、ワラッテ、イイカオシテ、ハーイ、ステキ」と日本語で言って仲間にカメラを向けていた。
オバさんと目が合った私は、思わず「日本語、スバラシイ」と声をかけてしまった。
「アリガト」と笑顔になったオバさんに、何かフザケテいないと生きているのがつまらない私は、京王プラザが見えているのに、「京王プラザ、どこか知ってる?」と聞いてみると、「アソコ」と空へそびえるホテルを指さすのだった。
ずいぶん早く着いてしまったので、ロビーの椅子に腰をおろし、「アソコ」だなんて、あのオバさん、よく出たよなあと感心しながら、タカハシさんとのつきあいのことも思いうかべた。
私がタカハシさんと初めて会ったのは、1986年、社台共有馬主クラブ会員が参加の牧場ツアーでだ。タカハシさんは45歳。私は49歳。
電気工事業を営むタカハシさんは府中市白糸台の住人で競馬場の近く、競馬に馴染むのは自然の成り行きだったろうが、共有クラブ会員になったのは、仕事に関係したシンボさんの誘いだったらしい。すでにシンボさんと私は酒友だちで、そこにタカハシさんも仲間入りしたのだ。
それからの長いクラブライフで、タカハシさんが出資馬のうちで忘れられないのは、サンデーサイレンスの娘、ハッピーパスだろう。テイエムオーシャンが勝った桜花賞でハッピーパスは4着だった。そのシーンを阪神競馬場で見たタカハシさんは、「GⅠを勝つまでは、どうしたって、共有馬主クラブをやめられないなあ」と思った。
タカハシさんにGⅠ勝利のチャンスが近づいた。それもハッピーパスの子で、父がキングカメハメハのコディーノが、2012年12月16日の朝日杯フューチュリティSで単勝1.3倍の1番人気だった。タカハシさんは仲よしのイチノセさんと中山競馬場にいた。イチノセさんが出資したロゴタイプも出走する。単勝34.5倍の7番人気だった。
勝ったのはロゴタイプで、コディーノはクビ差の2着だった。タカハシさんはどんなだったろう。イチノセさんはどんなだったろう。その後もふたりはずうっと仲よしでよかった。
ロゴタイプは皐月賞を勝ち、コディーノは3着だった。キズナが勝ったダービーではロゴタイプは5着、コディーノは9着だった。その年、ジェンティルドンナがジャパンCを連覇。タカハシさんをクラブに誘ったシンボさんの出資馬だった。
「わたしはGⅠを勝てない星に生まれたのかな」
とタカハシさんは思った。
2023年4月9日、第83回桜花賞。リバティアイランドは単勝1.6倍の1番人気だった。
「あっ、負ける」
と私はテレビの前で、4コーナーで殆ど最後方にいるリバティアイランドを見て思った。
「勝った。勝ちました。勝った」
とレース後30分ほどしてタカハシさんの声が阪神競馬場から飛んできた。
「口取り、した?」
「それが、抽せんにハズれて」
「残念」
と私が言った。コロナ禍でクラブ馬の口取りは10名と決められているのだ。
その晩も、まだ神戸のホテルにいたタカハシさんとスマホで話をした。
「大阪へ向かう新幹線でもコディーノの2着がちらついてきたし、競馬場でリバティを目で追ってても、直線に入ったあたり、またコディーノかって寒気が走って。
ゴール前は、もう息が止まりそうだった」
とタカハシさんは言い、そのあと、
「自分は、八十歳を過ぎてるんだって、あらためて、どうしてだか、思った」
と笑い声になった。
桜花賞祝勝会で中華料理店に集まったのは、タカハシさんも仲間の「友馬会」のメンバーだった。
「あの桜花賞に、友馬会は4頭出しだったんだよなあ」
とイチノセさんが言う。ユウコさんのコナコーストが2着、イトウさんのドゥアイズが5着、カズエさんのシングザットソングが7着だった。
友馬会のメンバーの殆どが、30代から、40代からの共有馬主クラブのメンバーで、いやあ、みんなおじいちゃん、おばあちゃんになっちゃったのだ。
「タカハシさんがGⅠを勝って、自分のことみたいにうれしい」
と言うイクコさんは93歳だ。ひとりで電車で狛江から来た。凄い。
「わたしが初めて持った馬はおぼえてる。コンキストダイナ。ノーザンテーストの牝だったわ。
勝てなかったのに、レースが終わったあと、いつも、勝ったみたいに威張って引きあげてくるから憎めなかった」
と笑うイクコさんは、コンキストダイナが走ってるころ、50代半ばだった。
「おやじ、連れてこないと怒るから」
とジェンティルドンナのシンボさんの息子のノリアキさんが、小さな額におさまったシンボさんの写真を持ってき て、リバティアイランドのレース写真の横に立て、コップに注いだビールを供えた。シンボさんが空へ旅立って数年が過ぎる。
「シンボさんには私のGⅠ勝ちを見せたかったなあ」
と言うタカハシさんに、イクコさんとカズエさんが花束を渡し、ロゴタイプのイチノセさんが乾杯の音頭を取り、サンデーサラブレッドクラブのタカシマさんが祝辞を言った。
「ありがとうございます。もう自分には、GⅠ勝利は縁がないなとあきらめて、もう八十歳も過ぎたし、クラブも引退だなあと思っていたところ、リバティアイランドが夢のように」
とタカハシさんは言い、言葉を詰まらせた。