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第341便 面会競馬

2023.05.12
 2023年4月2日の午前8時半、スマホが鳴り、入院中のスドウさんからだ。3月の初め、庭で踏台に乗って植木の枝葉を切りながら転倒し、足腰と頭部を損傷し、たまたま玄関にきた宅配便の運転手に発見され、救急車に乗った。

 「馬券は買ってないけど、大阪杯、一緒に見たい」
 とスドウさんが言う。ほかのことは言わず、それだけを言う。
 「わかった」
 と私は返事をした。
 その病院の10階に、3月7日から31日まで、かみさんが入院していた。スドウさんの病室は8階で、かみさんの見舞いに行きながら、スドウさんの顔も見にも行っていた。
 見舞いにルールがあって、午後3時から6時まで。時間制限は15分。おおよそ2人まで。受付で申請書を提出し、退所時間も記入して函に入れる。ま、行けば行ったで、30分か1時間ほどベッドサイドにいたりするが、看護師が「15分ですよ」と注意しにくることもある。
 スドウさんとの電話のあと、2月の終わりにもらったスドウさんからの手紙を読みたくなった。
 「今年の冬は本当に何事もなく、ありがたいです。たまに帰ってくる息子と以外は、しゃべることもなく、人間、しゃべらなくても生きていけるものだなあと思います。
 楽しみは朝夕のジュウとの散歩と週末の馬券だけ。日ノ出町へ行って、吉川さんを探すけれど、いないですね。馬券の帰りに、いつも酔っぱらっていたころを思いだすと、なみだが出そうになりますよ」
 という便り。スドウさんは、横浜市港北区に住んでいて、ときどき手紙が届くのだ。
 手紙のなかの「たまに帰ってくる息子」というのは、大手企業の富山工場で工場長をしている58歳のノブユキさんのこと。ノブユキさんもかなりの競馬好きで、ときどき電話をかけてきて、競馬の話をする。「日ノ出町へ行って」というのは、「ウインズ横浜へ行って」ということ。そこが京浜急行の日ノ出町に近いので、老人は「ウインズ横浜」を「日ノ出町」と言う。「ジュウとの散歩」というのは、飼っているメスの柴犬の名がジュウ。
 スドウさんの飼い犬のネーミングがユニークだ。みんな柴犬だが、初めに飼ったのがメスのナナ。名付けの理由は、たぶん忠犬ハチに頭脳は及ばぬだろうと、ハチからひとつ引いてナナ。ナナが死んで次がオスのキュウ。そして次がメスのジュウとなった。スドウさんの入院で、ジュウは今、同じ町内の犬好き仲間の家にいるそうだ。
 スドウさんとは40年のつきあいになるなあ。ウインズ横浜の近くの酒場で知りあい、新潟競馬場にも福島競馬場にも、何度も一緒に行ってる。かなりの昔、上山競馬場や水沢競馬場にも行ったよなあ。私と同じ1937(昭和12)年生まれ。知りあったころのスドウさんは、石油会社の部長だった。時流れ、ウインズの近くの野毛の酒場のはしごなんか夢みたい。そもそも、人生そのものが、なんだか夢みたいだよなあとか思いながら、午後3時20分に、4人部屋のスドウさんの病室のカーテンをあけた。
 イヤホンをつけて競馬のテレビを見ていたスドウさんが、私を見て、ニコッと笑った。
 「さっき、うとうと眠ってて、女房が夢に出てきたの。めったにそんなことはないから、大穴だなあ。女房の奴、あの世からむかえにきた」
 「だったら、急いで行ってあげなくちゃ」
 そう私が言うと、またスドウさんはニコッと笑った。ニコッと笑うのがスドウさんの持ち味だ。
 「福永祐一が騎手をやめて調教師になったね。それで父親の福永洋一のことを思いだしていたんだけど、エリモジョージというのは出てきたんだけど、あの、落馬しちゃった馬の名前がどうしても出てこない」
 「マリージョーイ」
 と私が答えた。
 「ああ、そう、マリージョーイか。この何日間、ずうっとそれを思いだしたくてつらかった。ああ、よかった。マリージョーイだ。うん、書いておくかな、また忘れそうだから」
 とスドウさんはベッドサイドのテーブルにある手帳に「マリージョーイ」と書いた。
 テスコボーイの娘マリージョーイ。田中良平厩舎。馬主は小田切有一。ユニークな馬名をつける馬主だ。小田切有一の父は文芸評論家の小田切秀雄。私の文芸作品を認めてくれて、何通もの手紙で励ましていただいたので、勝手に私は馬主小田切有一に縁を感じている。
 「ああ、そう、エリモジョージ」
 とスドウさんが突然言ったから、
 「ヤマニンウエーブ、ニホンピロムーテー」
 と私も福永洋一騎乗のGⅠ馬の名を言った。

 スドウさんが手帳に何か書きつけている。その傍で私は、テンポイントが京都の日経新春杯で骨折したのが1978(昭和53)年、福永洋一のマリージョーイの事故は1979(昭和54)年の阪神での毎日杯と思い、おれとスドウさんはいくつだったのかと思って計算をし、
 「おれたち、42歳だった」
 と私はひとりごとを言ってしまった。
 大阪杯は武豊騎乗のジャックドールが、ルメール騎乗のスターズオンアースをハナ差おさえた逃げ切り勝ち。
 「武豊は凄いけど、父親の武邦彦も凄い騎手だったよな」
 とレースから引きあげてくるテレビの武豊を見ながらスドウさんが言う。
 「武邦彦が乗ってた馬は?」
 と私が言い、
 「たくさん強い馬に乗ってるよな」 
 とスドウさんが言う。
 「キタノカチドキ。それに、ほら、ロングのつく馬がいた」
 「ロングエース」
 「そう、ロングエース。それに、忘れてはなりません、トウショウ」
 「トウショウボーイ」
 「そう、それに、インターグシケン」
 と私が言ったとき、看護師が顔を出し、
 「15分なんですけど」
 と声をかけられてしまった。
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