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第340便 マルデカワッタ

2023.04.11
 去年の暮れのこと、ウォシュレットの故障で修理にきてくれた青年が、トイレに競馬カレンダーが掛けてあったからだろう、
 「競馬、好きなんですか」
 と私に聞いた。
 「好きだよ。かなり好き」
 そう私が返事をすると、
 「全然知らなかったんですけど、コロナが騒ぎだされたころから、仕事仲間に誘われて横浜のウインズに行って、競馬にハマっちゃったんです。今は毎週、馬券やってます」
 と青年は笑顔になった。
 修理が終わって、
 「コーヒー、のんで行きなさいよ」
 と私が声をかけ、青年が残ったのは、競馬の話がしたかったからかなと私は思った。
 青年の名刺を見ると、小谷内和也。
 「昔、関西に小谷内秀夫という騎手がいたよ。ワカテンザンという馬に乗って、ダービーで、岩元市三が乗ったバンブーアトラスとゴール前で争って、半馬身差の2着だったのが小谷内ワカテンザン。いやあ、ごめん、ジイさん、つい、昔のことを喋っちゃうんだ」
 「小谷内という騎手がいたんですか」
 と青年がうれしそうな顔になって、それでジイさんは救われ、また遊びに寄りなと誘った。
 2023年になって1月に一度、2月に1度、小谷内和也はビールをのみにきた。そして3月4日の夕方、
 「やっちゃったんですよ、凄いの」
 とケイタイしてきた。自動車事故かと思ったが声が明るい。ウインズ横浜からの帰りだという。
 「花、いっぱい買って行きます。オーシャンSの①-⑨、来ちゃったんです」
 「えっ!あの菅原明良が穴あけたやつ?」
 「ハイ。馬連①-⑨、3万7,100円。500円持ってたんです」
 「とんで来い、とんで来い。ビール千本、背負って来い」
 と私が言った。
 両手で抱えるほどのバラの花束を持って和也が現れ、
 「ぼく、何度か、菅原明良で馬券を取らせてもらってるんですよ。9Rの潮来特別のとき、3番人気の菅原明良ブローザホーンから500円ずつ5点、馬単を買ったら当たっちゃって、5,790円ついてて。それでオーシャンSになって、勝つのは2番人気のルメールだと踏んで、16頭立て15番人気だった菅原明良のディヴィナシオンへの馬券を、潮来特別への感謝をこめて買ったんです。なんだか、夢のような一日になりました」
 と泡を吹くように語り、
 「じつはおれ、2月24日に86歳になっちまったんだ。その花束、勝手に、誕生日祝いだと思って飾らせてもらうよ」
 「やあ、うれしいです」
 と和也が拍手をしてくれ、私がバラの花束を片手で持ちあげてみせた。
 和也はビールで、私は只今アルコールアウトのためにノンアルで乾杯したあと、
 「前に話に出た、牧場で働いている人からの手紙、見たいなあ」
 と和也が言った。

 2月に会った時、自分は40代から70歳になるころまで、競走馬を生産する牧場を見てまわるのが幸せで、ケイタイ電話がないころには、牧場で働いている人との手紙のやりとりをいっぱいしていて、その手紙が、ミカンのダンボール函にぎっしり詰まるほどあって、それはとても捨てられないという話をしたら、そういう手紙には、どんなことが書かれていたのかと、和也が強い興味を示したのだった。
 それは本当なのだと示したくて、私は仕事部屋から、そのダンボール函をかかえてきて、和也の近くに置いた。
 「スマホなんかなくて、メールとかラインとか知らない時代、牧場ではたらく人と酒をのんで、さびしくなったり、怒ったり、悲しくなったり、うれしくなったりしたら手紙を書いてよ。おれも手紙を書く。おたがい、そうやって生きていこうよとかおれが言って、それで牧場ではたらくいろいろな人と、手紙のやりとりをしてたんだ。
 そうしたら、いつのまにか、ダンボール函に詰めこむぐらいになったというわけ。これ、おれの財産で、とても捨てられない」
 と私は気ままに1通を手にした。80円切手の消印を見ると2001年4月17日、苫小牧でポスト。差出人の住所は沙流郡日高町賀張だ。
 「トレーニングセール近し。ユキヒメ(ニックネーム)にブラシをかける。忙しすぎて、ろくにブラシもかけてやれなかったので毛がモサモサ。他の牧場の馬はピカピカなのだろうなあとか思いながらブラシがけ。
 きりなく抜け続けるユキヒメの体毛をゴムブラシで。シッポも毛の束がないように。
 タテガミはだいたいそろってるし、ジッとしてないので、少しそろえる程度であきらめる。
 疲れてる? 走りたい? あんたは気持ちで走るから心配。明日はまだ本番じゃないからね。
 とにかく本番は無事で回ってこようね。額をポンポンと軽く叩いて馬房から出た」
 という書きだしの手紙は、北海道が好きで岐阜県から牧場へ就職した女性だ。何年にもわたって仕事日記のようなものを送ってきた。
 もう一通、読んでみる。消印は1998年9月23日、浦河でポスト。差出人の住所は浦河郡浦河町野深。
 「父の葬儀で島根に帰り、母から、どうしても馬の仕事がしたいのか。出来れば帰ってきて、家の畑の面倒をと泣かれた。考えなければならない。どうしたらいいのか。馬の仕事から離れたくないし。おれ、馬の仕事が好きなのだ。この気持ち、母には理解できぬだろう」
 という書きだしだ。
 和也は何通もの手紙を一生懸命に読んだ。
 「誰もが、どこででもスマホを見つめている時代になって、こういう手紙は全く消えた。
 変わった。まるで変わった。時代が、まるで変わった。マルデカワッタという馬がダービーを勝つ」
 と私が笑い、小谷内和也は笑わなかった。
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