烏森発牧場行き
第339便 人生の一日
2023.03.10
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ビッグレッドファームを営む岡田繁幸と、川崎競馬の調教師の河津政明は、いわば「仕事のコンビ」だった。仕事ひと筋で休まない岡田繁幸に、少年時代の粗野を残しているような河津政明は、救いの存在だったのかもしれない。
河津政明と私のつきあいは、いわば「遊びのコンビ」だった。人間は、仕事を一生懸命にしなければならないが、しかし、ふざけもしなければヤッテラレナイというのが、「遊びのコンビ」の言い分。
酒をのまないのに酒場好きだった河津政明は、酒場で酔っぱらって冗談を飛ばすのが生き甲斐のような私と、川崎や横浜の、あちらこちらの酒場を渡り歩いた。
上野広小路に近い酒場のママが河津厩舎に馬を預けていて、そのママが作詞の勉強をしていたのか、「二人の世界」とか「白い海峡」とか書いた作詞家の池田充男に師事していた。
そんな関係で池田充男と河津政明も知り合い、池田充男作詞を歌う大月みやこが河津政明は大好きだった。
「女の港」は池田充男でなく星野哲郎作詞だが、大月みやこが歌った。カラオケで河津政明が「女の港」を歌う。「くちべにがこすぎたかしら、きものにすればよかったかしら」という歌い出し。間奏のあいだに河津政明はポケットに隠し持った口紅を塗り、ひそかに私もうしろを向いて同様に口紅を塗り、席を囲んだホステスたちをおどろかした。
バカなことやってたのだが、そんなおふざけが、河津政明と私の、いわば「人生の一日」だった。
1998(平成10)年10月19日、糖尿病の悪化で河津政明は死んでしまった。62歳。私と同年だ。
息を引きとってしまった河津政明は、まったくおだやかな顔になって川崎市小向の厩舎で寝かせられていて、足もとに座っていた私は、河津政明の冷たい足首をつかんでいた。
「嫌だねえ、このひとが焼かれちゃうなんて、嫌だねえ」と奥さんの恵美子がひとりごとを言った。
河津政明は横浜の鶴見の寺で眠った。しかし私は寺へ行くより、盆と年末、河津家へ行って、恵美子さん、騎手から調教師へと、父の跡を継いだ河津裕昭と、その妻のみゆき、そして親類の人やらと、にぎやかに河津政明の話をするのがうれしかった。
ところが、コロナとか恵美子の入院とか、おたがい電話で「会いたいねえ」とか言いながら、なかなか会えない。
3年ぶりになるのかな、2023年1月16日、私とかみさんで河津家訪問となった。
出かけた電車で、岡田繁幸もいなくなっちゃたんだよなあと窓の外の景色を眺め、富士山麓の土地に牧場を作ろうかという話がすすみ、岡田繁幸と河津政明が調査に行くのに、一緒に行って富士山を目の前にした露天風呂で笑っていたことなどを思いだしていた。
久しぶりの河津家で、グリという名の灰色の、牝のプードル犬が飛びまわり、かわいい悪さをくりかえすので、河津政明の生まれかわりかとか思ってしまった。
その日、河津裕昭厩舎は、16時45分発走の船橋競馬5Rに、ウインアルバローズ(父ロージズインメイ、母マイネピュール、母の父ジェニュイン)を川崎から運んでいるのだった。
テレビにパドックが映ると、みゆきが襖の向こうに消えて仏壇に、チーンと音を鳴らした。ウインアルバローズの1着を祈ったのだろう。
ウインアルバローズは1番人気になった。
「おれが河津家にいたから負けたというのはヤバイ。おれが河津家にいたから勝ったということに、なんとかしてもらいたい」
とか私のつまらないひとりごととは別に、テレビの前に正座しているみゆきと、ソファで手を合わせてる恵美子の、息苦しくなりそうな空気に包まれて、うちのかみさんまでが合掌していた。
私には、笹川騎手の手綱が見事に感じられて、みゆきの叫び声のなか、ウインアルバローズが勝った。襖の向こうへ急いだみゆきが、またチーンと音を鳴らした。河津政明に1勝を報告したのだと私は思った。
夜になって帰ってきて、
「直線半ばで3番人気の馬に並ばれたけど、笹川が馬の特性をよく知っていて、あわてないで、ちょいと休ませてから追ったでしょう。あれ、正解。打ち合わせどおり」
そう言う河津裕昭と乾杯をした。
昨夜、たまたま、友だちの石川幸江と電話していて、明日、河津家に行くよという話をしたら、わたしが1口持ってるウインアルバローズという馬が、明日、船橋で走るの、と言っていたので、彼女も今ごろ、乾杯してるかなと私は思った。
近所のアパートに住んでいるらしいフシミくんを河津裕昭が電話で呼んだ。
フシミくんは札幌市の生まれ。高校生のときの冬、家の周囲の除雪中の父が急死。人間、いつ死ぬか分からぬという感性が、好きだった馬に集中し、オーストラリアの乗馬学校に行き、騎手をめざした。日本に戻って、今、河津厩舎で働きながら、まだ騎手になる夢は捨てず、40歳を過ぎてしまったが、騎手試験に挑戦するのだという。
もっと、きちんとフシミくんのことを書きたいなと思った私は、後日にゆっくりと会いたいなと考えながら、久しぶりに河津家を訪ねた私の「人生の一日」にフシミくんに会い、そうなんだ、いろいろな人が、この世の中で一生懸命に生きているんだよなあと思ったら、2023年1月16日に、フシミくんに会ったというのを書きたくなり、雑に書いたら悪いと思いながらも、書いてしまった。
数日後、私のスマホで男の泣き声がした。新潟県妙高市に住む友だちからで、彼とは若い時に薬品問屋で苦労をともにした仲で、故郷に戻った彼とのつきあいは続いていた。彼は75歳。70歳の妻が急死したという。
葬儀の前日の昼、東京駅から長野へ向かい、長野から北しなの線の妙高高原駅へ行こうとしたが、妙高高原駅が除雪作業中で、その手前の黒姫駅止まり。復旧は未定だと言われ、唖然。
とりあえず黒姫駅まで行こうとワンマンカーに乗り、雪景色を見ながら、これも「人生の一日」と思いながら、停車した駅の名が「三才」。
「おっ、三才だなんて、競馬の世界みたいだ」
と私は誰もいない小さなホームに目をやった。
河津政明と私のつきあいは、いわば「遊びのコンビ」だった。人間は、仕事を一生懸命にしなければならないが、しかし、ふざけもしなければヤッテラレナイというのが、「遊びのコンビ」の言い分。
酒をのまないのに酒場好きだった河津政明は、酒場で酔っぱらって冗談を飛ばすのが生き甲斐のような私と、川崎や横浜の、あちらこちらの酒場を渡り歩いた。
上野広小路に近い酒場のママが河津厩舎に馬を預けていて、そのママが作詞の勉強をしていたのか、「二人の世界」とか「白い海峡」とか書いた作詞家の池田充男に師事していた。
そんな関係で池田充男と河津政明も知り合い、池田充男作詞を歌う大月みやこが河津政明は大好きだった。
「女の港」は池田充男でなく星野哲郎作詞だが、大月みやこが歌った。カラオケで河津政明が「女の港」を歌う。「くちべにがこすぎたかしら、きものにすればよかったかしら」という歌い出し。間奏のあいだに河津政明はポケットに隠し持った口紅を塗り、ひそかに私もうしろを向いて同様に口紅を塗り、席を囲んだホステスたちをおどろかした。
バカなことやってたのだが、そんなおふざけが、河津政明と私の、いわば「人生の一日」だった。
1998(平成10)年10月19日、糖尿病の悪化で河津政明は死んでしまった。62歳。私と同年だ。
息を引きとってしまった河津政明は、まったくおだやかな顔になって川崎市小向の厩舎で寝かせられていて、足もとに座っていた私は、河津政明の冷たい足首をつかんでいた。
「嫌だねえ、このひとが焼かれちゃうなんて、嫌だねえ」と奥さんの恵美子がひとりごとを言った。
河津政明は横浜の鶴見の寺で眠った。しかし私は寺へ行くより、盆と年末、河津家へ行って、恵美子さん、騎手から調教師へと、父の跡を継いだ河津裕昭と、その妻のみゆき、そして親類の人やらと、にぎやかに河津政明の話をするのがうれしかった。
ところが、コロナとか恵美子の入院とか、おたがい電話で「会いたいねえ」とか言いながら、なかなか会えない。
3年ぶりになるのかな、2023年1月16日、私とかみさんで河津家訪問となった。
出かけた電車で、岡田繁幸もいなくなっちゃたんだよなあと窓の外の景色を眺め、富士山麓の土地に牧場を作ろうかという話がすすみ、岡田繁幸と河津政明が調査に行くのに、一緒に行って富士山を目の前にした露天風呂で笑っていたことなどを思いだしていた。
久しぶりの河津家で、グリという名の灰色の、牝のプードル犬が飛びまわり、かわいい悪さをくりかえすので、河津政明の生まれかわりかとか思ってしまった。
その日、河津裕昭厩舎は、16時45分発走の船橋競馬5Rに、ウインアルバローズ(父ロージズインメイ、母マイネピュール、母の父ジェニュイン)を川崎から運んでいるのだった。
テレビにパドックが映ると、みゆきが襖の向こうに消えて仏壇に、チーンと音を鳴らした。ウインアルバローズの1着を祈ったのだろう。
ウインアルバローズは1番人気になった。
「おれが河津家にいたから負けたというのはヤバイ。おれが河津家にいたから勝ったということに、なんとかしてもらいたい」
とか私のつまらないひとりごととは別に、テレビの前に正座しているみゆきと、ソファで手を合わせてる恵美子の、息苦しくなりそうな空気に包まれて、うちのかみさんまでが合掌していた。
私には、笹川騎手の手綱が見事に感じられて、みゆきの叫び声のなか、ウインアルバローズが勝った。襖の向こうへ急いだみゆきが、またチーンと音を鳴らした。河津政明に1勝を報告したのだと私は思った。
夜になって帰ってきて、
「直線半ばで3番人気の馬に並ばれたけど、笹川が馬の特性をよく知っていて、あわてないで、ちょいと休ませてから追ったでしょう。あれ、正解。打ち合わせどおり」
そう言う河津裕昭と乾杯をした。
昨夜、たまたま、友だちの石川幸江と電話していて、明日、河津家に行くよという話をしたら、わたしが1口持ってるウインアルバローズという馬が、明日、船橋で走るの、と言っていたので、彼女も今ごろ、乾杯してるかなと私は思った。
近所のアパートに住んでいるらしいフシミくんを河津裕昭が電話で呼んだ。
フシミくんは札幌市の生まれ。高校生のときの冬、家の周囲の除雪中の父が急死。人間、いつ死ぬか分からぬという感性が、好きだった馬に集中し、オーストラリアの乗馬学校に行き、騎手をめざした。日本に戻って、今、河津厩舎で働きながら、まだ騎手になる夢は捨てず、40歳を過ぎてしまったが、騎手試験に挑戦するのだという。
もっと、きちんとフシミくんのことを書きたいなと思った私は、後日にゆっくりと会いたいなと考えながら、久しぶりに河津家を訪ねた私の「人生の一日」にフシミくんに会い、そうなんだ、いろいろな人が、この世の中で一生懸命に生きているんだよなあと思ったら、2023年1月16日に、フシミくんに会ったというのを書きたくなり、雑に書いたら悪いと思いながらも、書いてしまった。
数日後、私のスマホで男の泣き声がした。新潟県妙高市に住む友だちからで、彼とは若い時に薬品問屋で苦労をともにした仲で、故郷に戻った彼とのつきあいは続いていた。彼は75歳。70歳の妻が急死したという。
葬儀の前日の昼、東京駅から長野へ向かい、長野から北しなの線の妙高高原駅へ行こうとしたが、妙高高原駅が除雪作業中で、その手前の黒姫駅止まり。復旧は未定だと言われ、唖然。
とりあえず黒姫駅まで行こうとワンマンカーに乗り、雪景色を見ながら、これも「人生の一日」と思いながら、停車した駅の名が「三才」。
「おっ、三才だなんて、競馬の世界みたいだ」
と私は誰もいない小さなホームに目をやった。