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第347便 おれの財産

2023.11.16

 「大谷選手が米国で本塁打王争いを独走中の9月上旬、駅員の鈴木匡哉さん(28)は福岡市北東部にあるJR香椎駅のホームにいた。配属されて9か月が過ぎ、水色の制服は体になじむ。指さし確認で列車を見送るしぐさも板についてきた。
 11年前の高校最後の夏、日米のスカウトが注目する大谷選手と岩手大会の準決勝で相まみえた。一関学院のエースの鈴木さんは7点を追う六回表2死一、三塁で左打席に立った。「絶対に打ってやる」。バットをくるくる回し、軽く息を吐いて構えた。
 初球は157キロ、4球目は159キロ。直球だけでフルカウントに追い込まれたが、ワクワクしていた。次も真っすぐでくる。6球目、内角のひざ元ギリギリを突かれた。一瞬だった。バットは出ず、見逃し三振。電光掲示板には、160キロ、と表示されていた。
 うなるような直球で、気持ちが伝わってきた。ギアが上がった大谷選手の160キロを体感できたのは、かけがいのない財産、と鈴木さん。
 鈴木さんは高校卒業後、社会人野球のJR九州硬式野球部に入団した。
 11年が過ぎた日、鈴木さんはいつものように大リーグのニュースを昼休みに確認し、制帽を手に駅員室を出た。改札には、背筋をのばして利用者に声をかける鈴木さんの姿があった」
 という記事を新聞で読んだとき、私は3日前の、凱旋門賞があった日の自分のことを思いだした。私も「かけがいのない財産」と向きあっていたからである。
 2023年10月1日、第102回凱旋門賞。私は1度だけ、ロンシャン競馬場での凱旋門賞をライブ観戦したことがある。日本馬の参戦がない1998年の、オリビエ・ペリエ騎乗のサガミックスが勝った第77回凱旋門賞だ。25年の歳月が流れている。一緒に行った馬好きグループ9人のうち、6人が空へと消えてしまった。
 今年の日本馬の参戦は1頭。クリストフ・ルメール騎乗のスルーセブンシーズ(父ドリームジャーニー、母マイティ―スルー、母の父クロフネ)。
 1969年に野平祐二騎乗のスピードシンボリが挑戦してから53年、34頭(ナカヤマフェスタ、オルフェーヴル、ディープボンドは2度出走)が挑戦して未勝利だ。
 スルーセブンシーズも下馬評は低い。それなのに、ひょっとしてひょっとするかもと思わせてしまうのは、父ドリームジャーニーの兄のステイゴールドの影がちらつくからだ。
 これまでの凱旋門賞で2着が4度。1999年の蛯名騎乗のエルコンドルパサー、2010年の蛯名騎乗のナカヤマフェスタ、2012年と13年のスミヨン騎乗のオルフェーヴルだ。
 ナカヤマフェスタもオルフェーヴルも父ステイゴールド。日本馬にどうしても開かない凱旋門をこじあけるのは、ステイゴールドの血しかないのではと私は夢想してしまうのである。
 それに私にとってもステイゴールドは特別な馬、かけがえのない財産なのだ。
 私は2009年6月から9月まで、岡田繁幸さんの好意でビッグレッドファーム明和で暮らしている。私のいた家屋からステイゴールドがいたスタリオンまではすぐ近く。ほとんどの日、私はステイゴールドに朝も夕方も挨拶をし、ひとりごとになるのは仕方ないのだけれども、私の孤独の言葉を聞いてもらったりもした。


 もっと昔、私は社台ファーム空港牧場(現ノーザンファーム)でひと夏を過ごしたことがある。家屋の近くに放牧中のサッカーボーイがいて、ずいぶんつきあった。
 サッカーボーイの全妹がゴールデンサッシュ。ゴールデンサッシュの94がステイゴールドだ。そうした縁でステイゴールドに思いがつながり、まだデビュー前の、牧場での調教にも注目した。
 調教で馬群に入れると仲間に噛みついたり、後方に置くと苛立つ。納得すると静かだが、納得しないとうるさい。ゴールデンサッシュの94の異質に惹かれて私は、そのデビュー戦からの全レース、単勝馬券を買った。
 あいつ、わざと勝たないのかと思わせるほど、2着と3着が多く、ステイゴールドが初めて重賞(目黒記念)を勝ったのは38戦目。
 日本でGⅠ2着をくりかえしていたのにステイゴールドは、馬券を売らないドバイで、ドバイシーマクラシックを勝ち、GⅠ20戦目の香港ヴァーズを、黄金旅程という名で勝って、それがラストランというドラマになった。
 「おれ、香港で君が黄金旅程というゼッケンをつけてたけど、おれはステイゴールドに、不可思議というゼッケンをつけてほしかったよ。
 たしかステイゴールドは50戦してるけど、そのたびにおれ、この馬、フシギという別名があるんだと思ってた」
 と私は、スタリオンの放牧地で、牧柵に寄ってきてくれた種牡馬ステイゴールドに、そんなことを言っていた。
 その夏、横浜で美容師をしている40代の女性とか、市役所を定年退職したという函館の男性とか、浦和で造園業をしている初老の男性とかが、ステイゴールドのファンだったと訪ねてきた。横浜からの女性は2時間ほど、馬屋に戻ったステイゴールドを、ほとんど直立不動のようにして見つめていたりしたが、どうやらステイゴールドの魅力は、私が感じる「不思議」と通じるもののようだ。
 ひょっとして、ひょっとするかも、と凱旋門賞に挑戦するスルーセブンシーズに夢想を抱くのは、父ドリームジャーニーに通じるステイゴールドの、「不思議」がはたらいているのかも。
 2023年10月1日の夜、テレビの前で、凱旋門賞の実況中継を待ちながら、そうか、競馬という世界には、「ひょっとして、ひょっとするかも」の思いがはたらいているから成り立っているのかもしれないと考えたりした。
 するどい目つきのステイゴールド。のんびり、ぼんやりした目つきのステイゴールド。近くを通りすぎる野うさぎをちらっと見たステイゴールド。馬房から外へと顔を出し、そこにいた客に噛みつこうとしたステイゴールドを思いだし、その時間、おれの、かけがいのない財産だよなあと思っていると、15頭のゲートがあいた。
 スルーセブンシーズ4着。意地を見せた。

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