烏森発牧場行き
第213便 オリンピックの夏に
2012.09.12
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ロンドンオリンピックの男子体操、個人種目別鉄棒の決勝をテレビで見ている。
中国の鄒凱がミスなく宙を蹴り着地を決めて16.366。すごい。内村航平を負かしたゆかに続いて、またスウガイの金メダルだと私は思った。
ところがドイツのファビアン・ハンビュヘンが、「おお!」と私を驚かせる。着地したハンビュヘンが、「見てくれたかよ、おい」といったガッツポーズ。出た、16.400。
「まいったなあ、仕方ない」といった、落胆を隠したスウガイが画面にいる。
ハンビュヘンが、大きな怪我でのブランクをのりこえたベテランだと解説を聞いて知った。
ハンビュヘン、金メダル。そう思って見ていた私が、「何なのだ!」半ば呆れた。オランダのエプケ・ゾンダーランドが、まともに走ったオルフェーヴルのような、すべてを圧倒するバネを見せつけたからだ。
「やっちまったなあ。おれ、やっちまった」という顔のゾンダーランドの得点は、16.533。おそるべき金メダル。
びっくりして、ひと息つきたくて、缶ビールを取ってくる。ひとくちふたくち飲み、ちょっと落ち着くと、「そうか、4日前に、福田喜久男が死んだ」と思い、何秒か息をとめた。
福田喜久男、元雑誌「優駿」編集長。8月4日、午前9時50分、永眠。65歳。
「声をかけてくれて、ありがとう」そう私は、ターフライターの鶴木遵さんに心で礼を言った。8月3日の朝、「福田さんがアブナイ」と電話をくれたのだ。午後に、鶴木さん、画家の野口アキラさん、福田さんの親友の湯川章さん、山口ヒロコさん、私の5人で、お茶の水の順天堂病院の集中治療室にいた福田喜久男を囲んだ。福田喜久男の意識はなかったけれど、会えて私は救われた。
テレビが卓球の女子団体決勝を映している。福原愛が中国の李暁霞から1ゲームを取ったのがやっと。李暁霞の壁は高い。石川佳純は丁寧にのみこまれたみたいにストレート負け。石川と平野早矢香組と李と郭躍組のダブルスも中国組が圧倒的に強さを見せつけている。
世界ランク1位の選手の名前が丁寧というのだからおそれいりますだね。そんなことを思いながら、オリンピックで湧きたつ日に福田喜久男が死んでしまったとも思った。
すると私の頭に、開会式のはなやかさを伝える日の新聞に、「35年の重み、伝えたい」という見出しの記事があったことが浮かんできた。
それは8月1日から日本橋高島屋で開かれる、「めぐみちゃんと家族のメッセージ 横田滋展」を知らせる記事だった。横田めぐみさんが北朝鮮に連れ去られて35年が過ぎている。
その記事とかさなって、8月6日の「原爆の日」を伝える紙面の、慰霊碑に向かって祈る人たちの写真も浮かんだ。
広島に原爆が投下されて67年が過ぎる。
67年目の夏にロンドンオリンピック。人間はオリンピックもやれば戦争もするのだ、と私は思った。
卓球の試合が終わって、男子サッカーの準決勝、日本対メキシコのキックオフまでに間があり、ウイスキーの水割りをつくった。自分には何ひとつ特別な才能がないけれど、特別な才能を持つ男たちや女たちのロンドンでの必死な戦いを、家で気ままに水割りをのみながら見物しているという、おれの才能、と私は笑った。
「月がとっても青いから、遠廻りして帰ろう」と福田喜久男が私の頭のなかで歌った。菅原都々子が歌ってヒットした、清水みのる作詞、陸奥明作曲の、「月がとっても青いから」である。
「遠廻りして帰ろう」のあとは「あの鈴懸の並木路は」と続くのだが、福田喜久男の歌声は「帰ろう」の先へは行かず、また「月がとっても」に戻り、そこだけを繰り返して私に聞かせた。
テンポイントやフジヤマケンザンをおくりだした吉田牧場の母家で、酔っぱらった福田喜久男が、「その出だしが好き。わたしの最高の歌」と言って、くりかえし、そこだけを歌うのだった。いっしょにいるのは吉田牧場の主の吉田重雄さん、「優駿」に「サラブレッドヒーロー列伝」を書いていた横尾一彦さん、そして吉田牧場に居候をしていた私の4人。
福田喜久男に合わせて横尾一彦さんが、私が、その歌の一行に参加し、合唱をして笑った。「どうしてそこが最高の歌なのかなあ?」吉田重雄さんが質問をする。
「わたしは、優駿という雑誌をこしらえるほかに、なんの用事もない。その雑誌を手にした人が、月がとっても青いから、遠廻りして帰ろう、という気持ちになってくれるかどうか、それが勝負というわけ」そう福田喜久男が答えた。
吉田重雄さんは2001年11月に、横尾一彦さんは2004年4月に人生を閉じている。
「月がとっても青いから」福田喜久男が歌いながら、吉田重雄さん、横尾一彦さんのところへ歩いていくのが私に見えた。
今年6月、福田喜久男の「優駿四代目編集長の競馬放談記」という本が出た。
『また今月も一番最初に原稿を読んでいる。四十数年間、ほぼ毎月これを繰り返してきた。月半ばに校了し、最終週にはインクの香る新しい「優駿」を手にする。言い古された言葉だが、編集者というのは、作品の最初の読者だ。その最初の読者が面白がる心を忘れたら、いい作品も陽の目を見ない。人が気づかずにいることを、それとなく気づかせる。そんな発見が世界をつくる』と福田喜久男がまえがきに書いている。それを私は思いだした。
テレビの画面に日本とメキシコのサッカー選手が出てきた。オリンピックの夏に友だちが死んじゃったなあ、と私はグラスの水割りを見た。福田喜久男と最後に喋ったのは、ディープブリランテが勝ったダービーの日の東京競馬場だと思った。
中国の鄒凱がミスなく宙を蹴り着地を決めて16.366。すごい。内村航平を負かしたゆかに続いて、またスウガイの金メダルだと私は思った。
ところがドイツのファビアン・ハンビュヘンが、「おお!」と私を驚かせる。着地したハンビュヘンが、「見てくれたかよ、おい」といったガッツポーズ。出た、16.400。
「まいったなあ、仕方ない」といった、落胆を隠したスウガイが画面にいる。
ハンビュヘンが、大きな怪我でのブランクをのりこえたベテランだと解説を聞いて知った。
ハンビュヘン、金メダル。そう思って見ていた私が、「何なのだ!」半ば呆れた。オランダのエプケ・ゾンダーランドが、まともに走ったオルフェーヴルのような、すべてを圧倒するバネを見せつけたからだ。
「やっちまったなあ。おれ、やっちまった」という顔のゾンダーランドの得点は、16.533。おそるべき金メダル。
びっくりして、ひと息つきたくて、缶ビールを取ってくる。ひとくちふたくち飲み、ちょっと落ち着くと、「そうか、4日前に、福田喜久男が死んだ」と思い、何秒か息をとめた。
福田喜久男、元雑誌「優駿」編集長。8月4日、午前9時50分、永眠。65歳。
「声をかけてくれて、ありがとう」そう私は、ターフライターの鶴木遵さんに心で礼を言った。8月3日の朝、「福田さんがアブナイ」と電話をくれたのだ。午後に、鶴木さん、画家の野口アキラさん、福田さんの親友の湯川章さん、山口ヒロコさん、私の5人で、お茶の水の順天堂病院の集中治療室にいた福田喜久男を囲んだ。福田喜久男の意識はなかったけれど、会えて私は救われた。
テレビが卓球の女子団体決勝を映している。福原愛が中国の李暁霞から1ゲームを取ったのがやっと。李暁霞の壁は高い。石川佳純は丁寧にのみこまれたみたいにストレート負け。石川と平野早矢香組と李と郭躍組のダブルスも中国組が圧倒的に強さを見せつけている。
世界ランク1位の選手の名前が丁寧というのだからおそれいりますだね。そんなことを思いながら、オリンピックで湧きたつ日に福田喜久男が死んでしまったとも思った。
すると私の頭に、開会式のはなやかさを伝える日の新聞に、「35年の重み、伝えたい」という見出しの記事があったことが浮かんできた。
それは8月1日から日本橋高島屋で開かれる、「めぐみちゃんと家族のメッセージ 横田滋展」を知らせる記事だった。横田めぐみさんが北朝鮮に連れ去られて35年が過ぎている。
その記事とかさなって、8月6日の「原爆の日」を伝える紙面の、慰霊碑に向かって祈る人たちの写真も浮かんだ。
広島に原爆が投下されて67年が過ぎる。
67年目の夏にロンドンオリンピック。人間はオリンピックもやれば戦争もするのだ、と私は思った。
卓球の試合が終わって、男子サッカーの準決勝、日本対メキシコのキックオフまでに間があり、ウイスキーの水割りをつくった。自分には何ひとつ特別な才能がないけれど、特別な才能を持つ男たちや女たちのロンドンでの必死な戦いを、家で気ままに水割りをのみながら見物しているという、おれの才能、と私は笑った。
「月がとっても青いから、遠廻りして帰ろう」と福田喜久男が私の頭のなかで歌った。菅原都々子が歌ってヒットした、清水みのる作詞、陸奥明作曲の、「月がとっても青いから」である。
「遠廻りして帰ろう」のあとは「あの鈴懸の並木路は」と続くのだが、福田喜久男の歌声は「帰ろう」の先へは行かず、また「月がとっても」に戻り、そこだけを繰り返して私に聞かせた。
テンポイントやフジヤマケンザンをおくりだした吉田牧場の母家で、酔っぱらった福田喜久男が、「その出だしが好き。わたしの最高の歌」と言って、くりかえし、そこだけを歌うのだった。いっしょにいるのは吉田牧場の主の吉田重雄さん、「優駿」に「サラブレッドヒーロー列伝」を書いていた横尾一彦さん、そして吉田牧場に居候をしていた私の4人。
福田喜久男に合わせて横尾一彦さんが、私が、その歌の一行に参加し、合唱をして笑った。「どうしてそこが最高の歌なのかなあ?」吉田重雄さんが質問をする。
「わたしは、優駿という雑誌をこしらえるほかに、なんの用事もない。その雑誌を手にした人が、月がとっても青いから、遠廻りして帰ろう、という気持ちになってくれるかどうか、それが勝負というわけ」そう福田喜久男が答えた。
吉田重雄さんは2001年11月に、横尾一彦さんは2004年4月に人生を閉じている。
「月がとっても青いから」福田喜久男が歌いながら、吉田重雄さん、横尾一彦さんのところへ歩いていくのが私に見えた。
今年6月、福田喜久男の「優駿四代目編集長の競馬放談記」という本が出た。
『また今月も一番最初に原稿を読んでいる。四十数年間、ほぼ毎月これを繰り返してきた。月半ばに校了し、最終週にはインクの香る新しい「優駿」を手にする。言い古された言葉だが、編集者というのは、作品の最初の読者だ。その最初の読者が面白がる心を忘れたら、いい作品も陽の目を見ない。人が気づかずにいることを、それとなく気づかせる。そんな発見が世界をつくる』と福田喜久男がまえがきに書いている。それを私は思いだした。
テレビの画面に日本とメキシコのサッカー選手が出てきた。オリンピックの夏に友だちが死んじゃったなあ、と私はグラスの水割りを見た。福田喜久男と最後に喋ったのは、ディープブリランテが勝ったダービーの日の東京競馬場だと思った。