烏森発牧場行き
第294便 ひとりじゃない
2019.06.12
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5月5日の夜、
「明日、遊びに行ってもいいですか。うれしい報告があるんです」
と幸市が電話してきた。
「ひょっとして、女性といっしょ?」
「だといいですけど、ちがいます。でも、ぼくには、電話で言うのはもったいないくらい、うれしいことです。ひとりじゃない事件」
「わかった。明日を待つよ」
と私が言った。
西沢幸市、26歳。横浜市戸塚の自動車修理工場で働いている。2歳のときに父親が失踪、8歳のときに母親が病死し、横浜の養護施設で育った。
その養護施設に、ときどき遊びに行っていた私と知りあい、18歳で自動車修理工場に就職したときも家に招いて乾杯をした。施設出身者の会があり、私にも声がかかって酒をのむ。絵を描くのが好きで、才能もある幸市に、
「描かないで済むのなら描くな。描かなければ生きていけなかったら描くしかないよ」
と言ったのは私で、私が知っている画家グループに紹介し、グループ展に幸市も出品している。
2018年8月、ウインズ横浜へ行こうとしている私は、JR桜木町駅で偶然に幸市と会い、コーヒーショップに座った。
「おれ、もう40年もウインズ横浜に出入りしている。教会に行く信者みたいにね。
おれには家族もいるし友だちもいるけど、この世にひとりっきりで生きてるという感覚も消えないんだ。それがウインズに行くと、ひとりっきりじゃないのかもって感じるんだよ。
幸市にね、おれ、頼みがあるんだ。ウインズ横浜にいる人たちの誰かしらを、キャンバスに描いてほしいんだな。これ、最近、おれが強く思ってることなんだ」
そんな話を私がして、幸市は横浜美術館へ行ったあと、ウインズ横浜の4階に来るということになった。
そうだ、その日は、新潟2歳Sの日で、ウインズで私を見つけた幸市は、
「ウインズも生まれて初めて。馬券を買うのも生まれて初めて」
とうれしそうに人間の集まりを見ていた。
「どう買ったらいいのかなあ?」
「1番人気のケイデンスコールの単勝を100円でも買ったらいいよ。競馬はね、100円でも馬券を買うと自分ごと。馬券を買わないと他人ごとなんだ」
そう私が言ってマークシートのつけ方を教えると、幸市はケイデンスコールの単勝を1,000円買って発走を待った。
「ゼッケンは6番。緑色のヘルメットをしっかり見つける」
「ドキドキするなあ」
と幸市は頭上のテレビを見つめた。
その日の幸市を思いだしていた私は、もらった手紙を保存している袋から、幸市からの手紙を見つけだした。新潟2歳Sのことを書いた幸市からの手紙を読みかえしたくなったのだ。
「ケイデンスコールという馬が後方から追いこんできて1着になったシーンが、ウインズから伊勢佐木町へ行って老師とビールをのんでいるときも、しっかりと目の奥に、何度もよみがえってきました」
というのが手紙の書きだしである。老師とは私のことだ。
「あの夜、アパートに帰ってから、不思議という言葉のつぶやきを、何度も何度もして、それこそ不思議という空間のなかに座りこんでいました。
午前にコーヒー店で老師は、ひとりっきりの感覚のことを言い、ウインズへ行くとそれが変わるという話をされていましたが、まさしくぼくは、人たちといる空気ではなく、一頭の馬が走ってきて、勝とうとして走ってきて、それで1着になるという光景がぼくの目にやきつき、そのことが、不思議でならないのですが、老師の言う、ひとりっきりじゃないのかもという感覚を作ってくれたようなのです。
まさしくぼくは、ひとりっきりで生きているという感覚のかたまりなのですが、それがケイデンスコールという一頭の馬のたたかいが目にやきつき、自分はひとりっきりではないぞという、不思議な安心感のようなものが生まれたのです。何度も書いてしまいますが、不思議です」
という手紙を私は、電話で幸市が「ひとりじゃない事件」と言ったのを思いだしながら読みなおした。
5月6日の夕方、ウイスキーのボトルをみやげにして幸市が現れ、ボトルといっしょに、一枚の馬券をテーブルに置いた。NHKマイルCの馬単⑰-⑱と⑱-⑰を500円ずつ買った馬券で、1着アドマイヤマーズ、2着がケイデンスコールの馬単⑰-⑱が的中しているのだ。配当が2万2,440円である。
「ぼくに不思議な感覚を恵んでくれたケイデンスコールは買おうと、はじめから決めてました。
問題はグランアレグリア。どこを読んでも、よほどのことがないかぎり負けないと書いてあるんですよね。
グランアレグリアを買えよ。とくにおまえみたいな奴はと、この声は自分が自分に言う声です。
そのとおりにしたら、自分はいったい何なのだと、グランアレグリアを買うか捨てるか。ずいぶん考えました。
超人気のグランアレグリアと2番人気のアドマイヤマーズの馬券を買うのが常識だろうと思ったとき、それを買ったら、自分が何も戦っていないなと思って、千円ぐらい捨ててやれって。ケイデンスコールとアドマイヤマーズの馬券にしたんです。
ケイデンスコールが追いこんできたとき、ぼくはウインズにいるのだか、どこにいるのだか、混乱して倒れそうになった。
ぼくはウインズの隅っこへ行って、しばらく立ったまま、自分はひとりっきりではないという感覚になっていました」
夢中のように幸市は喋った。
「ヘルプ・ミーなんだよ。おれもずうっと、人生、ヘルプ・ミーと、何かに助けを求めて生きてきた」
と私が言い、それからずいぶん黙った幸市が、「競馬って不思議だ」、とひとりごとを言った。
「明日、遊びに行ってもいいですか。うれしい報告があるんです」
と幸市が電話してきた。
「ひょっとして、女性といっしょ?」
「だといいですけど、ちがいます。でも、ぼくには、電話で言うのはもったいないくらい、うれしいことです。ひとりじゃない事件」
「わかった。明日を待つよ」
と私が言った。
西沢幸市、26歳。横浜市戸塚の自動車修理工場で働いている。2歳のときに父親が失踪、8歳のときに母親が病死し、横浜の養護施設で育った。
その養護施設に、ときどき遊びに行っていた私と知りあい、18歳で自動車修理工場に就職したときも家に招いて乾杯をした。施設出身者の会があり、私にも声がかかって酒をのむ。絵を描くのが好きで、才能もある幸市に、
「描かないで済むのなら描くな。描かなければ生きていけなかったら描くしかないよ」
と言ったのは私で、私が知っている画家グループに紹介し、グループ展に幸市も出品している。
2018年8月、ウインズ横浜へ行こうとしている私は、JR桜木町駅で偶然に幸市と会い、コーヒーショップに座った。
「おれ、もう40年もウインズ横浜に出入りしている。教会に行く信者みたいにね。
おれには家族もいるし友だちもいるけど、この世にひとりっきりで生きてるという感覚も消えないんだ。それがウインズに行くと、ひとりっきりじゃないのかもって感じるんだよ。
幸市にね、おれ、頼みがあるんだ。ウインズ横浜にいる人たちの誰かしらを、キャンバスに描いてほしいんだな。これ、最近、おれが強く思ってることなんだ」
そんな話を私がして、幸市は横浜美術館へ行ったあと、ウインズ横浜の4階に来るということになった。
そうだ、その日は、新潟2歳Sの日で、ウインズで私を見つけた幸市は、
「ウインズも生まれて初めて。馬券を買うのも生まれて初めて」
とうれしそうに人間の集まりを見ていた。
「どう買ったらいいのかなあ?」
「1番人気のケイデンスコールの単勝を100円でも買ったらいいよ。競馬はね、100円でも馬券を買うと自分ごと。馬券を買わないと他人ごとなんだ」
そう私が言ってマークシートのつけ方を教えると、幸市はケイデンスコールの単勝を1,000円買って発走を待った。
「ゼッケンは6番。緑色のヘルメットをしっかり見つける」
「ドキドキするなあ」
と幸市は頭上のテレビを見つめた。
その日の幸市を思いだしていた私は、もらった手紙を保存している袋から、幸市からの手紙を見つけだした。新潟2歳Sのことを書いた幸市からの手紙を読みかえしたくなったのだ。
「ケイデンスコールという馬が後方から追いこんできて1着になったシーンが、ウインズから伊勢佐木町へ行って老師とビールをのんでいるときも、しっかりと目の奥に、何度もよみがえってきました」
というのが手紙の書きだしである。老師とは私のことだ。
「あの夜、アパートに帰ってから、不思議という言葉のつぶやきを、何度も何度もして、それこそ不思議という空間のなかに座りこんでいました。
午前にコーヒー店で老師は、ひとりっきりの感覚のことを言い、ウインズへ行くとそれが変わるという話をされていましたが、まさしくぼくは、人たちといる空気ではなく、一頭の馬が走ってきて、勝とうとして走ってきて、それで1着になるという光景がぼくの目にやきつき、そのことが、不思議でならないのですが、老師の言う、ひとりっきりじゃないのかもという感覚を作ってくれたようなのです。
まさしくぼくは、ひとりっきりで生きているという感覚のかたまりなのですが、それがケイデンスコールという一頭の馬のたたかいが目にやきつき、自分はひとりっきりではないぞという、不思議な安心感のようなものが生まれたのです。何度も書いてしまいますが、不思議です」
という手紙を私は、電話で幸市が「ひとりじゃない事件」と言ったのを思いだしながら読みなおした。
5月6日の夕方、ウイスキーのボトルをみやげにして幸市が現れ、ボトルといっしょに、一枚の馬券をテーブルに置いた。NHKマイルCの馬単⑰-⑱と⑱-⑰を500円ずつ買った馬券で、1着アドマイヤマーズ、2着がケイデンスコールの馬単⑰-⑱が的中しているのだ。配当が2万2,440円である。
「ぼくに不思議な感覚を恵んでくれたケイデンスコールは買おうと、はじめから決めてました。
問題はグランアレグリア。どこを読んでも、よほどのことがないかぎり負けないと書いてあるんですよね。
グランアレグリアを買えよ。とくにおまえみたいな奴はと、この声は自分が自分に言う声です。
そのとおりにしたら、自分はいったい何なのだと、グランアレグリアを買うか捨てるか。ずいぶん考えました。
超人気のグランアレグリアと2番人気のアドマイヤマーズの馬券を買うのが常識だろうと思ったとき、それを買ったら、自分が何も戦っていないなと思って、千円ぐらい捨ててやれって。ケイデンスコールとアドマイヤマーズの馬券にしたんです。
ケイデンスコールが追いこんできたとき、ぼくはウインズにいるのだか、どこにいるのだか、混乱して倒れそうになった。
ぼくはウインズの隅っこへ行って、しばらく立ったまま、自分はひとりっきりではないという感覚になっていました」
夢中のように幸市は喋った。
「ヘルプ・ミーなんだよ。おれもずうっと、人生、ヘルプ・ミーと、何かに助けを求めて生きてきた」
と私が言い、それからずいぶん黙った幸市が、「競馬って不思議だ」、とひとりごとを言った。