烏森発牧場行き
第296便 ひとり旅
2019.08.09
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月に一度くらいかな、「どうしてる?」と電話してくる高校時代の友だちがいる。私の高校卒業は1955(昭和30)年で、同学年は82歳か83歳になっている。
その友だちは通産官僚としてかなりの出世をし、退任後も私などにはよく判らない組織の役員をし、今は奥さんとともに、裕福な人でないと入れない老人ホームで暮らしている。
「どうしてるのかなあ。おれ、どうしてるんだろうか」
などと返事をしながら私は、
「ま、言ってみれば、ひとり旅に救われながら生きてるのかなあ」
と言ってみたりするのだ。
「ひとり旅?凄いなあ。元気もいるし、金もかかるし」
そう友だちに言われ、
「いや、ま、おかげさまで元気なんだけど、そんなには金のかからない旅なんだ、おれのひとり旅」
と私は返事をした。
私のひとり旅は週末にウインズへ行くことである。競馬を知らない友だちにウインズの話をしても通じないので、それでひとり旅と言うしかないのだった。
2019年7月6日、雨が降ったりやんだりの土曜日、ウインズ横浜にいる。相変わらず思うようにはいかない馬券の悲しさに見舞われながら、それでもオコボレのような当たり馬券になぐさめられたりして、福島12R3歳上、1勝クラスの発走をテレビを見上げて待っていると、となりにいた白髪の人が、
「朝、というか、昼前、モスバーガーにいませんでしたか」
と話しかけてきた。たしかに私は今日の午前、JR桜木町駅に近いコーヒーショップに座っている。
「ハイ、いました」
「同じ予想紙を読んでるなあと思ったんです」
と白髪の人は笑顔になった。
15頭立ての福島12Rのゲートがあき、終始3番手にいた8番人気のブリッツェンシチーが1着。2着は14番人気のメイクグローリーで、馬連⑦-⑭が13万4,230円、馬単⑭-⑦は23万4,600円だった。
「こんなの、いちど当たってみたいなあ。買ってる人もいるわけですよね」
と私が言い、
「⑦-⑭なら、わたしは74歳だから、トシで買えば、⑦-⑭は買えましたね」
と白髪の人が笑った。
なんとなく、すぐに動かずに、
「今日はどうでした」
そう私が聞き、
「めずらしく福島も函館も中京も、メインはそこそこにカタくて、どうにかプラスというところですかね」
と白髪の人は言い、
「コーヒーでものみませんか」
歩きだして私が誘ったのだった。
白髪の人と私は桜木町駅に近いパブでビールをのんだ。朝、コーヒーショップで読んでいた予想紙にコラムを書かせてもらっていると私は自己紹介をし、ウインズや競馬場へ行くのを「ひとり旅」と感じて、いわば、その「ひとり旅」に人生を救われているような気がすると言った。
すると白髪の人は、
「その、ひとり旅、というの、わかります。よく、わかります。妻にも息子たちにも、わたしが土日に馬券を買いに出かけるというのが不可解なんですね。でも、わたし、つまり、その、ひとり旅をしなくなったら、自分がどんな生活感覚になるのか不安ですね」
そう言うので、私はビールのグラスを顔の高さにまで持ちあげ、乾杯をした。
白髪の人は茅ヶ崎市に住み、東海道線で横浜まで30分、京浜東北線に乗りかえて桜木町駅にはひと駅でウインズである。
茅ヶ崎市出身の白髪の人は、銀行員人生をおくった人だった。20代の数年は東京から関西に転勤をし、職場の先輩に誘われて初めて競馬場へ行ったのは、1973(昭和48)年の京都競馬場。武邦彦騎乗のタケホープが勝ち、増沢末夫のハイセイコーがハナ差2着の菊花賞だという。
東京勤務になった1975年に、そのときはひとりで府中へ行き、カブラヤオーが菅原泰夫騎乗でダービーを勝つのを見て、スタンドの群衆のなかで興奮していたのをおぼえているという。
「わたしは最初の菊花賞は別にして、競馬場へはいつもひとりで行っていて、いつのまにか、競馬って、ひとりで見るものだということになってましたね。誰かといっしょに競馬場にいたという思い出は、ほとんどなくて、わたしは競馬場へ行くのが、言われてみれば、わたしのひとり旅ということになるなあ。
いやあ、ウインズもそうです。今日、あなたとこうしてビールをのんでるのは不思議で、ウインズもずうっとひとりでしたね。
ありがとうございます。誘っていただいて、うれしいです。うれしいから、ビール、もう一杯、のみませんか」
と白髪の人はウェイトレスに注文をした。
「競馬が、銀行員であるあなたに、自然に入ってきたみたいですね」
そう私が言い、
「たぶん、自分の、何か、不足みたいなものを、競馬が埋めてくれたのか、いつのまにか、競馬がなくてはならないものになってましたね。
誰に自慢するわけでもないですけど、ときどき、競馬場とか、ウインズとかで、自分はテンポイントが勝った有馬記念を中山競馬場で見てたんだぞって、誰にというわけでなしに、言いたくなってるんです。
1番人気テンポイントが1着。2番人気トウショウボーイが2着。3番人気グリーングラスが3着。4番人気プレストウコウが4着だったんだって言いたくなってるんです」
と白髪の人は2杯目のジョッキを持った。
「今日、それを言えた。誘ってよかった」
「ほんと、ほんと」
白髪の人と私はうれしい夕暮れである。
その友だちは通産官僚としてかなりの出世をし、退任後も私などにはよく判らない組織の役員をし、今は奥さんとともに、裕福な人でないと入れない老人ホームで暮らしている。
「どうしてるのかなあ。おれ、どうしてるんだろうか」
などと返事をしながら私は、
「ま、言ってみれば、ひとり旅に救われながら生きてるのかなあ」
と言ってみたりするのだ。
「ひとり旅?凄いなあ。元気もいるし、金もかかるし」
そう友だちに言われ、
「いや、ま、おかげさまで元気なんだけど、そんなには金のかからない旅なんだ、おれのひとり旅」
と私は返事をした。
私のひとり旅は週末にウインズへ行くことである。競馬を知らない友だちにウインズの話をしても通じないので、それでひとり旅と言うしかないのだった。
2019年7月6日、雨が降ったりやんだりの土曜日、ウインズ横浜にいる。相変わらず思うようにはいかない馬券の悲しさに見舞われながら、それでもオコボレのような当たり馬券になぐさめられたりして、福島12R3歳上、1勝クラスの発走をテレビを見上げて待っていると、となりにいた白髪の人が、
「朝、というか、昼前、モスバーガーにいませんでしたか」
と話しかけてきた。たしかに私は今日の午前、JR桜木町駅に近いコーヒーショップに座っている。
「ハイ、いました」
「同じ予想紙を読んでるなあと思ったんです」
と白髪の人は笑顔になった。
15頭立ての福島12Rのゲートがあき、終始3番手にいた8番人気のブリッツェンシチーが1着。2着は14番人気のメイクグローリーで、馬連⑦-⑭が13万4,230円、馬単⑭-⑦は23万4,600円だった。
「こんなの、いちど当たってみたいなあ。買ってる人もいるわけですよね」
と私が言い、
「⑦-⑭なら、わたしは74歳だから、トシで買えば、⑦-⑭は買えましたね」
と白髪の人が笑った。
なんとなく、すぐに動かずに、
「今日はどうでした」
そう私が聞き、
「めずらしく福島も函館も中京も、メインはそこそこにカタくて、どうにかプラスというところですかね」
と白髪の人は言い、
「コーヒーでものみませんか」
歩きだして私が誘ったのだった。
白髪の人と私は桜木町駅に近いパブでビールをのんだ。朝、コーヒーショップで読んでいた予想紙にコラムを書かせてもらっていると私は自己紹介をし、ウインズや競馬場へ行くのを「ひとり旅」と感じて、いわば、その「ひとり旅」に人生を救われているような気がすると言った。
すると白髪の人は、
「その、ひとり旅、というの、わかります。よく、わかります。妻にも息子たちにも、わたしが土日に馬券を買いに出かけるというのが不可解なんですね。でも、わたし、つまり、その、ひとり旅をしなくなったら、自分がどんな生活感覚になるのか不安ですね」
そう言うので、私はビールのグラスを顔の高さにまで持ちあげ、乾杯をした。
白髪の人は茅ヶ崎市に住み、東海道線で横浜まで30分、京浜東北線に乗りかえて桜木町駅にはひと駅でウインズである。
茅ヶ崎市出身の白髪の人は、銀行員人生をおくった人だった。20代の数年は東京から関西に転勤をし、職場の先輩に誘われて初めて競馬場へ行ったのは、1973(昭和48)年の京都競馬場。武邦彦騎乗のタケホープが勝ち、増沢末夫のハイセイコーがハナ差2着の菊花賞だという。
東京勤務になった1975年に、そのときはひとりで府中へ行き、カブラヤオーが菅原泰夫騎乗でダービーを勝つのを見て、スタンドの群衆のなかで興奮していたのをおぼえているという。
「わたしは最初の菊花賞は別にして、競馬場へはいつもひとりで行っていて、いつのまにか、競馬って、ひとりで見るものだということになってましたね。誰かといっしょに競馬場にいたという思い出は、ほとんどなくて、わたしは競馬場へ行くのが、言われてみれば、わたしのひとり旅ということになるなあ。
いやあ、ウインズもそうです。今日、あなたとこうしてビールをのんでるのは不思議で、ウインズもずうっとひとりでしたね。
ありがとうございます。誘っていただいて、うれしいです。うれしいから、ビール、もう一杯、のみませんか」
と白髪の人はウェイトレスに注文をした。
「競馬が、銀行員であるあなたに、自然に入ってきたみたいですね」
そう私が言い、
「たぶん、自分の、何か、不足みたいなものを、競馬が埋めてくれたのか、いつのまにか、競馬がなくてはならないものになってましたね。
誰に自慢するわけでもないですけど、ときどき、競馬場とか、ウインズとかで、自分はテンポイントが勝った有馬記念を中山競馬場で見てたんだぞって、誰にというわけでなしに、言いたくなってるんです。
1番人気テンポイントが1着。2番人気トウショウボーイが2着。3番人気グリーングラスが3着。4番人気プレストウコウが4着だったんだって言いたくなってるんです」
と白髪の人は2杯目のジョッキを持った。
「今日、それを言えた。誘ってよかった」
「ほんと、ほんと」
白髪の人と私はうれしい夕暮れである。