烏森発牧場行き
第335回 わたしの馬、タラレバ
2022.11.11
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あたりまえのことを言うなと叱られそうだが、八十五歳になっての日々は、「おれにとっても初めての経験だよなあ」とひとりごとを言って、ちょっと笑いそうになる。
それでつくづく、人間という生きもの、何か楽しみがなくなったら元気を失い、毎日を空しく過ごして、いっそう身体にも悪いよなあと思う。
おかげさまで私は、自分用に書き止めておいた、誰かしらと会ったときの記録を綴ったノートがたくさんあり、それを読みかえすという楽しみがありがたい。
テレビで競馬を見ていて、ゲート入りが始まったのに落鉄した馬のためにスタート時間が遅れますということがあったりすると、そうだよなあ、競馬の世界には装蹄という重要な仕事があるのだと再認識をし、昔、美浦トレセンの装蹄所を訪ねたことがあったと思いだし、競馬が終わってから、装蹄師のことを記録したノートを引っぱりだすのが楽しみになる。
昭和13(1938)年生まれで、岩手県出身で、中学卒業後、府中の牛丸装蹄師の弟子になり、20年後に独立して、美浦トレセンの一角で装蹄所を営む桜田誠さんのことが記録してある。
「馬の爪は秀節を知ってる。青い芽の出るころがいちばん伸びる。冬は伸びない。硬くなってね。だから爪が割れて、空っ風が吹くと裂蹄が多い。春一番が吹くころになると裂蹄が少なくなる。
安くない生きものだから、神経が休まらない。それにおとなしい奴ばかりじゃないし、いろいろクセ馬もいてね。人がケガするか、馬がケガするかって、毎日毎秒。
まあねえ、馬ってかわいいんだ。生きものはかわいい。わたしは酒より女より生きものでね、家へ帰ると3匹の犬とたくさんの小鳥が待ってる。いちど家の方にも遊びにきてくださいよ」
と桜田さんが言ってる。
読みかえして私は、人生で競馬と出会ってよかったなあと、あらためて思うのだ。
もう十数年も昔になるけど、3年間、「PHPビジネスレビュー・松下幸之助研究」という雑誌で私は、「挑戦する心」というシリーズを担当し、企業を一流にした経営者を取材して、その人生を伝えるという仕事をしたことがある。
いつでもどこでも、その人に楽しみがなければ元気が湧かないから、取材のなかで私は、楽しみについての質問をする。すると取材のあとのコーヒータイムのような時、逆に取材相手が私に、
「あなたの楽しみは?」と聞かれることがけっこうあった。
「ぼくは競馬が好きなんです。むろん、馬券を買うのも好きです。生きる楽しみといったら、いろいろほかにもありますが、代表作は競馬かなあ」
と私は答えていたけれど、思えばかなりの数になる取材者に、競馬を知ってる人はひとりもいなかったなあと考え、それでいっそう、自分の競馬好きがうれしくなったようだった。楽しみがあるから元気に生きてこられた。
2022年10月2日、朝、私はスポーツ紙で、帯広ばんえい競馬の出馬表を読んでいる。いつのころからか、私はばんえい競馬の馬の名前を調べるのが楽しみになっていた。
どうしてだろう。その名前から、名づけた人の性分とか、いかにも北の大地の風とか、ジョークとかを感じるのが好きなのだろうか。
私は何度か帯広競馬場でばんえい競馬を見ていて、帯広在住の友だちが、そこの調教師と知りあいで厩舎を訪ねたりもしたが、ばんえい競馬というと私には、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が流れてくるのだ。それは初めて行った帯広競馬場でレースのあいま、スタンドに流れていた石川さゆりの歌声に、泣きたくなりそうに感動したのが忘れられない。
そのメロディーを思いだしながら、みゆきさんに私はケイタイをかけていた。帯広11R第16回秋桜賞の3枠にツガルノヒロイモノがいて、その母がフジノミユキ。
みゆきさんは私の長女と高校の同級生。離婚して私と同じ住宅地の実家に戻ってきて、介護ヘルパーをしながら息子を育てた。けっこう競馬が好きで、GⅠレースの馬券を私に頼んできたりする。
「仕事終わったら寄ってよ。見せたいものがあるの」
と私がケイタイで言った。
夕方、みゆきさんの車が私の家に寄ったので、
「みゆきさんのご両親、青森の出身だよね。ツガルノヒロイモノという馬がいて、その母親がフジノミユキ。これは見せなくちゃ」
と私はスポーツ紙の帯広の出馬表を見せた。
「あら、なに、これ。ツガルノヒロイモノってなんだろう。あら、同じレースに、ヘッチャラという馬もいる」
とみゆきさんが面白がってくれたので私はうれしかった。
「これ、何て読むの?」
とみゆきさんが、ツガルノヒロイモノという活字の横の、小さな活字の「弟子屈」のことを言った。
ツガルノヒロイモノの生産地だろう。
「テシカガ。摩周湖と阿寒湖との中間あたりに、弟子屈温泉がある。テシカガで生まれた馬が、どうしてツガルノヒロイモノなのか、名づけ親に聞いてみたいなあ」
と私が言った。
10月3日、新聞でツガルノヒロイモノが9頭立てで3着と知ったので、また私はみゆきさんにそれを知らせた。
10月2日と3日のばんえい競馬で、私が気にした馬名をメモしてみた。メキメキ、フンコロガシ、アオイソラノシタ、オニヨリツヨイ、マタセタナ、サカノテッペン、ツララ、ワガヤノホシ、テッチャン、キラキラヒカル、キタノユウジロウ。
「そんなこと、どうして面白いの?」
という声も聞こえてきそうな気もするのだが、私には、自分から元気をなくさないための楽しみのひとつなのだ。
私の楽しみ、馬券なのだが、10月1日も2日も、ひとつも当たらない。ジイさんになってから馬単しか買わないから、余計に当たらない。でも、65年も買い続けているのだから、間違いなく楽しみなのだ。
そうか、私の楽しみは、タラレバなのか。私はタラレバという名の馬と生きているのかも。
それでつくづく、人間という生きもの、何か楽しみがなくなったら元気を失い、毎日を空しく過ごして、いっそう身体にも悪いよなあと思う。
おかげさまで私は、自分用に書き止めておいた、誰かしらと会ったときの記録を綴ったノートがたくさんあり、それを読みかえすという楽しみがありがたい。
テレビで競馬を見ていて、ゲート入りが始まったのに落鉄した馬のためにスタート時間が遅れますということがあったりすると、そうだよなあ、競馬の世界には装蹄という重要な仕事があるのだと再認識をし、昔、美浦トレセンの装蹄所を訪ねたことがあったと思いだし、競馬が終わってから、装蹄師のことを記録したノートを引っぱりだすのが楽しみになる。
昭和13(1938)年生まれで、岩手県出身で、中学卒業後、府中の牛丸装蹄師の弟子になり、20年後に独立して、美浦トレセンの一角で装蹄所を営む桜田誠さんのことが記録してある。
「馬の爪は秀節を知ってる。青い芽の出るころがいちばん伸びる。冬は伸びない。硬くなってね。だから爪が割れて、空っ風が吹くと裂蹄が多い。春一番が吹くころになると裂蹄が少なくなる。
安くない生きものだから、神経が休まらない。それにおとなしい奴ばかりじゃないし、いろいろクセ馬もいてね。人がケガするか、馬がケガするかって、毎日毎秒。
まあねえ、馬ってかわいいんだ。生きものはかわいい。わたしは酒より女より生きものでね、家へ帰ると3匹の犬とたくさんの小鳥が待ってる。いちど家の方にも遊びにきてくださいよ」
と桜田さんが言ってる。
読みかえして私は、人生で競馬と出会ってよかったなあと、あらためて思うのだ。
もう十数年も昔になるけど、3年間、「PHPビジネスレビュー・松下幸之助研究」という雑誌で私は、「挑戦する心」というシリーズを担当し、企業を一流にした経営者を取材して、その人生を伝えるという仕事をしたことがある。
いつでもどこでも、その人に楽しみがなければ元気が湧かないから、取材のなかで私は、楽しみについての質問をする。すると取材のあとのコーヒータイムのような時、逆に取材相手が私に、
「あなたの楽しみは?」と聞かれることがけっこうあった。
「ぼくは競馬が好きなんです。むろん、馬券を買うのも好きです。生きる楽しみといったら、いろいろほかにもありますが、代表作は競馬かなあ」
と私は答えていたけれど、思えばかなりの数になる取材者に、競馬を知ってる人はひとりもいなかったなあと考え、それでいっそう、自分の競馬好きがうれしくなったようだった。楽しみがあるから元気に生きてこられた。
2022年10月2日、朝、私はスポーツ紙で、帯広ばんえい競馬の出馬表を読んでいる。いつのころからか、私はばんえい競馬の馬の名前を調べるのが楽しみになっていた。
どうしてだろう。その名前から、名づけた人の性分とか、いかにも北の大地の風とか、ジョークとかを感じるのが好きなのだろうか。
私は何度か帯広競馬場でばんえい競馬を見ていて、帯広在住の友だちが、そこの調教師と知りあいで厩舎を訪ねたりもしたが、ばんえい競馬というと私には、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が流れてくるのだ。それは初めて行った帯広競馬場でレースのあいま、スタンドに流れていた石川さゆりの歌声に、泣きたくなりそうに感動したのが忘れられない。
そのメロディーを思いだしながら、みゆきさんに私はケイタイをかけていた。帯広11R第16回秋桜賞の3枠にツガルノヒロイモノがいて、その母がフジノミユキ。
みゆきさんは私の長女と高校の同級生。離婚して私と同じ住宅地の実家に戻ってきて、介護ヘルパーをしながら息子を育てた。けっこう競馬が好きで、GⅠレースの馬券を私に頼んできたりする。
「仕事終わったら寄ってよ。見せたいものがあるの」
と私がケイタイで言った。
夕方、みゆきさんの車が私の家に寄ったので、
「みゆきさんのご両親、青森の出身だよね。ツガルノヒロイモノという馬がいて、その母親がフジノミユキ。これは見せなくちゃ」
と私はスポーツ紙の帯広の出馬表を見せた。
「あら、なに、これ。ツガルノヒロイモノってなんだろう。あら、同じレースに、ヘッチャラという馬もいる」
とみゆきさんが面白がってくれたので私はうれしかった。
「これ、何て読むの?」
とみゆきさんが、ツガルノヒロイモノという活字の横の、小さな活字の「弟子屈」のことを言った。
ツガルノヒロイモノの生産地だろう。
「テシカガ。摩周湖と阿寒湖との中間あたりに、弟子屈温泉がある。テシカガで生まれた馬が、どうしてツガルノヒロイモノなのか、名づけ親に聞いてみたいなあ」
と私が言った。
10月3日、新聞でツガルノヒロイモノが9頭立てで3着と知ったので、また私はみゆきさんにそれを知らせた。
10月2日と3日のばんえい競馬で、私が気にした馬名をメモしてみた。メキメキ、フンコロガシ、アオイソラノシタ、オニヨリツヨイ、マタセタナ、サカノテッペン、ツララ、ワガヤノホシ、テッチャン、キラキラヒカル、キタノユウジロウ。
「そんなこと、どうして面白いの?」
という声も聞こえてきそうな気もするのだが、私には、自分から元気をなくさないための楽しみのひとつなのだ。
私の楽しみ、馬券なのだが、10月1日も2日も、ひとつも当たらない。ジイさんになってから馬単しか買わないから、余計に当たらない。でも、65年も買い続けているのだから、間違いなく楽しみなのだ。
そうか、私の楽しみは、タラレバなのか。私はタラレバという名の馬と生きているのかも。