烏森発牧場行き
第336回 秋、祈り
2022.12.12
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ウクライナのキーウ近郊ボロジャンカで2022年10月、電力危機に見舞われ、明かりに使うローソクを手に、窓の外を見つめるバアさん。
新聞にあった、その写真を見て、見つめて、ウクライナを破壊しているロシアのボスが、この写真を見たら、どんなふうに感じるのだろうかと私は思った。ひょっとして、そのボスは、母親から生まれた生きものではないのかも。では、何から生まれた生きものなのだろう。
「窓から見つめるバアさん」と書いて、私が女房のことを「うちのバアさんが」と話をするものだから、
「バアさんという言い方はやめなよ」
と言う友だちの顔が浮かんだ。それはその友だちだけでなく、ほかの人からもよく言われるのである。
それで私はそのことを本人にも聞くと、「わたしも嫌だ」という返事。
そうかい、それでは、と私は考えてみた。今、女房は83歳。10年ぐらい前では「うちのカミさんが」と言っていたのが、いつのまにか「バアさん」に変わった。どう考えても、私には自然の成り行き。このまま、「バアさん」で行こうと決めた。
10月27日、バアさんと品川駅で乗った新幹線が、午後1時に新大阪駅に着いた。改札口で待っていてくれたのが、71歳の田中正史と65歳の千世子夫妻。田中夫妻は兵庫県川西市に住んでいる。
そこから田中正史のハンドルで、大阪府豊能郡能勢町野間中の、日蓮宗霊場、能勢妙見山へと向かった。
田中夫妻は平成元年からの社台ダイナース共有馬主クラブの会員で、年に一度は牧場ツアーで会っているし、大阪でも酒をのんだりして、私とは30年のおつきあいである。しかし、バアさんは初対面だった。
田中正史は大手の金融会社勤務で、大阪、新宿、八王子、新潟、広島と転勤人生で定年。今はボランティア活動だ。千世子は大手の人材派遣会社で定年をむかえ、今は能勢妙見山勤務である。
田中夫妻と私は長年の手紙づきあいもあったが、千世子が妙見山の仕事になってから、キバナコスモスや白詰草やどくだみの花などをプラスチックで包んだ押し花ハガキが届くようになり、鎌倉彫りの職人のバアさんは、そのハガキがうれしくてたまらず、どうしても田中千世子と能勢妙見山に会いたくなったのだった。
新大阪駅から妙見山まで車で90分。久しぶりがうれしくて話がはずみ、ほとんど景色には失礼しながら、通称は北極星の森、妙見山のブナ林に囲まれてしまった。
経堂や絵馬堂をめぐり、浄水堂や祖師堂に手を合わせながら、
「この山のなかで仕事して5年。いちばん感じるものは何?」
と私が聞き、
「祈り。祈りかなあ。人生って、言ってしまうと、信仰を持つとか持たないとかは関係なく、祈りに支えられているのかなあ」
と田中千世子が言った。
夜、京都のホテルで食事をした。
「長いつきあいなのに、どうして競馬と出会ったのか、聞いてなかったなあ」
「ぼくが新潟勤務時代に、まだ会社に就職する前の千世子が新潟競馬場でバイトしたんです。もともとぼくは馬券をやってたし」
「武豊がデビューして2年目だったかな、検量室とかで雑用していて、いろいろな騎手たちとも冗談を言ったり」
「そうか。それでフロンティアの感動があったわけだ」
と私が言った。
田中夫妻の出資馬フロンティア(父ダイワメジャー、母グレースランド、母の父トニービン)が岩田康誠騎乗で、2017年の新潟2歳Sを勝った時、新潟競馬場で見た田中夫妻は涙ぐんだ。
田中夫妻の人生のいろいろを聞きながら私は、新潟2歳Sのフロンティアの1着も、千世子の言う祈りにつながるなあと思った。
翌日の午前は京都御所で遊び、仕事に戻る田中夫妻と別れた私らは、八坂神社の近くで割烹料理「ほたる」を営む上村高史と会った。
上村は22歳のころ、京都で板前修業をしながら、なんとか休みを作って北海道の牧場めぐりをし、静内駅で寝泊まりしたりしていた。
そのころに私と知りあったのだから、もう40年近いつきあいになる。50歳になったら自分の店を持つという夢が実現し、店名を決めてよと言われて私が「ほたる」と決め、バアさんが鎌倉彫りで看板を作り、それは店先に取り付けてある。
10月28日、上村のハンドルで私らは、京都大原の三千院へ行った。「一隅を照らす。これ則ち国宝なり」とは、自分にとってどんな意味があるのかとか考えながら、杉木立ちのなか、廊下に座って庭を眺める。往生極楽院の屋根に、秋のやさしい陽差しが降り注いでいた。
「この三千院の先の川に、明け方に家を出て鮎を釣りに行くんですわ。業者から仕入れたんでは赤字やしね」
そんな上村の話を聞きながら、50歳で店を持ち、コロナ禍とたたかいながら「ほたる」を守っている上村高史の人生も、田中千世子の言う「祈り」につながるのかな、と私は思った。
10月30日、ホテルニューオータニでの、タイトルホルダー「宝塚記念祝賀会」へ行く。光栄にも私は、馬主の山田弘から、乾杯の音頭を頼まれていた。
「ぼくは何度も何度も、牧場で山田弘が、馬を見つめている姿を見ています。馬を見ている人には、それぞれの金のことや人間関係のことが重なっているでしょうが、そのとき、ふと、山田弘は少年にもなっている。
その山田少年が、ついにサウンドトゥルーと出会い、タイトルホルダーと出会った。
うれしい。山田ご夫妻、岡田牧雄さん、岡田スタッドの皆さん、栗田厩舎の皆さん、横山富雄を祖にする横山典弘一家の皆さん、ここにお集まりの皆さん、カンパーイ!」
と私は声を張りあげた。
その帰り道、「山田少年」の話はウケなかったなあと思いながら、サウンドトゥルーもタイトルホルダーも、田中千世子の言う「祈り」が、山田弘の支えになって出会わせたのだと私は思った。
新聞にあった、その写真を見て、見つめて、ウクライナを破壊しているロシアのボスが、この写真を見たら、どんなふうに感じるのだろうかと私は思った。ひょっとして、そのボスは、母親から生まれた生きものではないのかも。では、何から生まれた生きものなのだろう。
「窓から見つめるバアさん」と書いて、私が女房のことを「うちのバアさんが」と話をするものだから、
「バアさんという言い方はやめなよ」
と言う友だちの顔が浮かんだ。それはその友だちだけでなく、ほかの人からもよく言われるのである。
それで私はそのことを本人にも聞くと、「わたしも嫌だ」という返事。
そうかい、それでは、と私は考えてみた。今、女房は83歳。10年ぐらい前では「うちのカミさんが」と言っていたのが、いつのまにか「バアさん」に変わった。どう考えても、私には自然の成り行き。このまま、「バアさん」で行こうと決めた。
10月27日、バアさんと品川駅で乗った新幹線が、午後1時に新大阪駅に着いた。改札口で待っていてくれたのが、71歳の田中正史と65歳の千世子夫妻。田中夫妻は兵庫県川西市に住んでいる。
そこから田中正史のハンドルで、大阪府豊能郡能勢町野間中の、日蓮宗霊場、能勢妙見山へと向かった。
田中夫妻は平成元年からの社台ダイナース共有馬主クラブの会員で、年に一度は牧場ツアーで会っているし、大阪でも酒をのんだりして、私とは30年のおつきあいである。しかし、バアさんは初対面だった。
田中正史は大手の金融会社勤務で、大阪、新宿、八王子、新潟、広島と転勤人生で定年。今はボランティア活動だ。千世子は大手の人材派遣会社で定年をむかえ、今は能勢妙見山勤務である。
田中夫妻と私は長年の手紙づきあいもあったが、千世子が妙見山の仕事になってから、キバナコスモスや白詰草やどくだみの花などをプラスチックで包んだ押し花ハガキが届くようになり、鎌倉彫りの職人のバアさんは、そのハガキがうれしくてたまらず、どうしても田中千世子と能勢妙見山に会いたくなったのだった。
新大阪駅から妙見山まで車で90分。久しぶりがうれしくて話がはずみ、ほとんど景色には失礼しながら、通称は北極星の森、妙見山のブナ林に囲まれてしまった。
経堂や絵馬堂をめぐり、浄水堂や祖師堂に手を合わせながら、
「この山のなかで仕事して5年。いちばん感じるものは何?」
と私が聞き、
「祈り。祈りかなあ。人生って、言ってしまうと、信仰を持つとか持たないとかは関係なく、祈りに支えられているのかなあ」
と田中千世子が言った。
夜、京都のホテルで食事をした。
「長いつきあいなのに、どうして競馬と出会ったのか、聞いてなかったなあ」
「ぼくが新潟勤務時代に、まだ会社に就職する前の千世子が新潟競馬場でバイトしたんです。もともとぼくは馬券をやってたし」
「武豊がデビューして2年目だったかな、検量室とかで雑用していて、いろいろな騎手たちとも冗談を言ったり」
「そうか。それでフロンティアの感動があったわけだ」
と私が言った。
田中夫妻の出資馬フロンティア(父ダイワメジャー、母グレースランド、母の父トニービン)が岩田康誠騎乗で、2017年の新潟2歳Sを勝った時、新潟競馬場で見た田中夫妻は涙ぐんだ。
田中夫妻の人生のいろいろを聞きながら私は、新潟2歳Sのフロンティアの1着も、千世子の言う祈りにつながるなあと思った。
翌日の午前は京都御所で遊び、仕事に戻る田中夫妻と別れた私らは、八坂神社の近くで割烹料理「ほたる」を営む上村高史と会った。
上村は22歳のころ、京都で板前修業をしながら、なんとか休みを作って北海道の牧場めぐりをし、静内駅で寝泊まりしたりしていた。
そのころに私と知りあったのだから、もう40年近いつきあいになる。50歳になったら自分の店を持つという夢が実現し、店名を決めてよと言われて私が「ほたる」と決め、バアさんが鎌倉彫りで看板を作り、それは店先に取り付けてある。
10月28日、上村のハンドルで私らは、京都大原の三千院へ行った。「一隅を照らす。これ則ち国宝なり」とは、自分にとってどんな意味があるのかとか考えながら、杉木立ちのなか、廊下に座って庭を眺める。往生極楽院の屋根に、秋のやさしい陽差しが降り注いでいた。
「この三千院の先の川に、明け方に家を出て鮎を釣りに行くんですわ。業者から仕入れたんでは赤字やしね」
そんな上村の話を聞きながら、50歳で店を持ち、コロナ禍とたたかいながら「ほたる」を守っている上村高史の人生も、田中千世子の言う「祈り」につながるのかな、と私は思った。
10月30日、ホテルニューオータニでの、タイトルホルダー「宝塚記念祝賀会」へ行く。光栄にも私は、馬主の山田弘から、乾杯の音頭を頼まれていた。
「ぼくは何度も何度も、牧場で山田弘が、馬を見つめている姿を見ています。馬を見ている人には、それぞれの金のことや人間関係のことが重なっているでしょうが、そのとき、ふと、山田弘は少年にもなっている。
その山田少年が、ついにサウンドトゥルーと出会い、タイトルホルダーと出会った。
うれしい。山田ご夫妻、岡田牧雄さん、岡田スタッドの皆さん、栗田厩舎の皆さん、横山富雄を祖にする横山典弘一家の皆さん、ここにお集まりの皆さん、カンパーイ!」
と私は声を張りあげた。
その帰り道、「山田少年」の話はウケなかったなあと思いながら、サウンドトゥルーもタイトルホルダーも、田中千世子の言う「祈り」が、山田弘の支えになって出会わせたのだと私は思った。