第5コーナー ~競馬余話~
第2回 あるがままを受け入れる心
2008.05.25
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3月30日に中京競馬場で行われたG1競走・第38回高松宮記念は,単勝4番人気のファイングレイン(牡5歳,栗東・長浜博之厩舎)が優勝した。
勝ちタイムの1分7秒1は高松宮記念のレース新記録。1200メートルに限れば,これで4戦4勝の負け知らずとなったファイングレインは,主役不在だったスプリント界の王座に就いた。
レース後,ファイングレインの生産者でオーナーの社台ファーム・吉田照哉代表にうかがった話は実に興味深いものだった。
当初,聞きたいと思っていたのは種牡馬フジキセキのことだった。高松宮記念で産駒が1,2着を独占した上,同時期にアラブ首長国連邦で行われたドバイ・シーマクラシックでもオーストラリア産のサンクラシークが優勝していた。しかし,僕の耳に残ったのは,話がファイングレインの血統に及んだ時,吉田代表がもらしたひとことだった。
「母親はスタミナ血統なんだけどねえ」愛馬がG1を制覇して,うれしくない生産者はいないだろう。だが,吉田代表は少し戸惑うような表情を見せた。
ファイングレインは父フジキセキ,母ミルグレインとの間に生まれた。母のミルグレインは97年英国生まれで,父ポリッシュプレセデント,母ミルラインの血統だ。98年9月にあったせりで,吉田代表が27万ポンド(当時のレートで約6000万円)の高額で競り落とした。高額でもまったく不思議のないほどの良血だった。
ミルグレインの全姉ピュアグレインは95年の英オークス,ヨークシャーオークスを制した名牝だった。同年の凱旋門賞でもラムタラの5着に健闘。現役最後のレースとなったジャパンカップではランドの10着。来日した時の姿を覚えている方もいるでしょう。
ミルグレインは00年6月に中京でデビューし,5戦目で初勝利を挙げた。02年1月に引退するまで,1200メートルから2000メートルまでの芝レースばかりを走り,通算19戦3勝。3勝はいずれも1800メートルだった。その初子がファイングレインだった。ファイングレインは母と同じ長浜調教師に育てられた。
こんな血統的背景があったから,ファイングレインもデビュー戦で1200メートルを快勝して以降は1600メートルを中心に走っていた。06年5月のG㈵競走NHKマイルカップでロジックの2着になるなど性能の高さを見せた。ところが,このレース後に右前脚の骨折が判明,1年もの休養を余儀なくされた。
復帰後,不振が続いた。かつての輝きは失われたかに見えた。しかし京都金杯がファイングレインの運命を変えた。08年初戦に選んだはずの京都金杯を除外され,方針転換した先が1200メートルの淀短距離Sだった。ファイングレインはこのレースを楽勝する。すると続くシルクロードSも快勝して,ついに重賞初制覇。1200メートルという新しい活躍の舞台を見つけ出した。
競馬は不思議だ。フジキセキとミルグレインという配合を考えた時,吉田代表の頭の中にスプリンターの誕生はイメージになかったはずだ。が,色々な偶然も重なって,一流スプリンターの誕生を見ることができた。
もし吉田代表や長浜調教師が頭の固い血統論者だったら,スプリント戦への方針転換はできなかっただろう。欧州中距離でトップクラスの実績を残した母系にこだわっていれば,スプリンターとしての片鱗を見逃したかもしれない。幸い関係者には,あるものをあるがままに受け入れる懐の深さがあった。
JBBA NEWS 2008年5月号より転載
勝ちタイムの1分7秒1は高松宮記念のレース新記録。1200メートルに限れば,これで4戦4勝の負け知らずとなったファイングレインは,主役不在だったスプリント界の王座に就いた。
レース後,ファイングレインの生産者でオーナーの社台ファーム・吉田照哉代表にうかがった話は実に興味深いものだった。
当初,聞きたいと思っていたのは種牡馬フジキセキのことだった。高松宮記念で産駒が1,2着を独占した上,同時期にアラブ首長国連邦で行われたドバイ・シーマクラシックでもオーストラリア産のサンクラシークが優勝していた。しかし,僕の耳に残ったのは,話がファイングレインの血統に及んだ時,吉田代表がもらしたひとことだった。
「母親はスタミナ血統なんだけどねえ」愛馬がG1を制覇して,うれしくない生産者はいないだろう。だが,吉田代表は少し戸惑うような表情を見せた。
ファイングレインは父フジキセキ,母ミルグレインとの間に生まれた。母のミルグレインは97年英国生まれで,父ポリッシュプレセデント,母ミルラインの血統だ。98年9月にあったせりで,吉田代表が27万ポンド(当時のレートで約6000万円)の高額で競り落とした。高額でもまったく不思議のないほどの良血だった。
ミルグレインの全姉ピュアグレインは95年の英オークス,ヨークシャーオークスを制した名牝だった。同年の凱旋門賞でもラムタラの5着に健闘。現役最後のレースとなったジャパンカップではランドの10着。来日した時の姿を覚えている方もいるでしょう。
ミルグレインは00年6月に中京でデビューし,5戦目で初勝利を挙げた。02年1月に引退するまで,1200メートルから2000メートルまでの芝レースばかりを走り,通算19戦3勝。3勝はいずれも1800メートルだった。その初子がファイングレインだった。ファイングレインは母と同じ長浜調教師に育てられた。
こんな血統的背景があったから,ファイングレインもデビュー戦で1200メートルを快勝して以降は1600メートルを中心に走っていた。06年5月のG㈵競走NHKマイルカップでロジックの2着になるなど性能の高さを見せた。ところが,このレース後に右前脚の骨折が判明,1年もの休養を余儀なくされた。
復帰後,不振が続いた。かつての輝きは失われたかに見えた。しかし京都金杯がファイングレインの運命を変えた。08年初戦に選んだはずの京都金杯を除外され,方針転換した先が1200メートルの淀短距離Sだった。ファイングレインはこのレースを楽勝する。すると続くシルクロードSも快勝して,ついに重賞初制覇。1200メートルという新しい活躍の舞台を見つけ出した。
競馬は不思議だ。フジキセキとミルグレインという配合を考えた時,吉田代表の頭の中にスプリンターの誕生はイメージになかったはずだ。が,色々な偶然も重なって,一流スプリンターの誕生を見ることができた。
もし吉田代表や長浜調教師が頭の固い血統論者だったら,スプリント戦への方針転換はできなかっただろう。欧州中距離でトップクラスの実績を残した母系にこだわっていれば,スプリンターとしての片鱗を見逃したかもしれない。幸い関係者には,あるものをあるがままに受け入れる懐の深さがあった。
JBBA NEWS 2008年5月号より転載