第5コーナー ~競馬余話~
第57回 「有馬記念」
2015.12.22
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年も押し詰まり、今年もまた怪物レース・有馬記念の季節になった。「怪物レース」と書いたのは馬券の売り上げで有馬記念に匹敵するレースがほかにないからだ。おそらく申請すれば、ギネス世界記録に認定されるはずだ。
中央競馬で1レースの馬券の売り上げが500億円を超えたケースが過去に17度ある。このうち14度が有馬記念で記録されている。残る3度はいずれも日本ダービーで、最高の売り上げとなったのはナリタブライアンが優勝した1994年。その売り上げは567億8,629万400円だった。
ところがダービーの最高売り上げも有馬記念に当てはめると歴代10位というレベルにすぎない。有馬記念では500億円台が6度、600億円台が1度、700億円台が5度、そして800億円台が2度も達成されている。売り上げが最高に達したのは1996年、サクラローレルが優勝した年で、その額は875億104万2,400円だった。
改めて、この時の資料を調べてみた。
馬券を発売した競馬場はレースが行われた中山をはじめ札幌、函館、福島、新潟、東京、中京、京都、阪神、小倉とJRAの10競馬場。このほか水沢、盛岡(いずれも岩手)、三条(新潟、廃止)、高崎(群馬、廃止)、佐賀、荒尾(熊本、廃止)の地方6競馬場が加わった。これに25のウインズ(場外馬券売り場)、電話投票で馬券の発売が行われた。
有馬記念の舞台となった中山競馬場では48億3,350万5,900円の売り上げがあったが、発売所別の売り上げで、現場を上回ったのがウインズ後楽園だった。この年の有馬記念では実に59億9,742万3,900円を売り上げた。東京都文京区にあってプロ野球・巨人の本拠である東京ドームのそばにある通称「黄色いビル」は抜群の集客力と集金力を持つ。
当時は金曜日に枠順が発表され、土曜日と日曜日の2日間で有馬記念の馬券を発売していた。土曜日の午前9時から午後5時まで、レース当日の午前9時から発走の午後3時20分まで、およそ14時間30分足らずの間にウインズ後楽園では59億円あまりの馬券が売られた。1時間単位で約4億円。すさまじいばかりの売れ方だ。
そんな有馬記念も当初は馬券が売れなかった。1956年の第1回は8,124万8,400円、第2回は売り上げが落ち、6,661万6,600円だった。
ご存じのように有馬記念はJRAの第2代理事長・有馬頼寧氏の提唱で始まった。「競馬にもプロ野球のオールスター戦のようにファン投票で出場馬を選ぶレースを」。第1回は有馬記念ではなく、中山グランプリの名称で12月23日に行われた。距離も現在より100メートル長い2600メートルだった。そしてファン投票2位で1番人気のメイヂヒカリが優勝した。菊花賞や天皇賞・春を制していた牡4歳は蛯名武五郎騎手に導かれ、2分43秒1のレコードタイムで駆け抜けた。そして、このレースを最後の花道に現役を引退した。
第1回中山グランプリが終わって1ヵ月もたたない1957年1月9日、有馬理事長が急性肺炎のため急逝する。中山グランプリの創設に尽力した有馬理事長を偲び、同レースを「有馬記念」と改称しようという声があがり、同年12月の第2回は「有馬記念」とした初めて行われた。
1966年からは距離2500メートルで行われるようになり、この年、売り上げは初めて10億円を超え、14億2,322万9,100円になった。その4年後の1970年に71億1,334万1,200円となり、同じ年のダービー(46億637万100円)を初めて追い抜いた。1972年には100億9,059万2,900円と100億円を突破した。ダービーの売り上げが100億円を超えるのは、その2年後だった。
1988年、僕は出版社の三省堂を訪れ、辞書の取材をしたことがある。広辞苑(岩波書店)のライバルとなるべく、この年に出版された「大辞林」についての記事を書くのが目的だった。大辞林に初めて収録された言葉の中に「有馬記念」があったのだ。創設から30年あまりを経過して、怪物レースは冬の風物詩として世間に認知されたのだ。第1回中山グランプリが始まる時、レース名を一般公募したというが、もし有馬記念が別の名称だったら、これほど有名になったかどうか怪しいものだ。つくづく「有馬記念」で良かったと思う。
その有馬記念は今年、節目の60回目を迎える。
中央競馬で1レースの馬券の売り上げが500億円を超えたケースが過去に17度ある。このうち14度が有馬記念で記録されている。残る3度はいずれも日本ダービーで、最高の売り上げとなったのはナリタブライアンが優勝した1994年。その売り上げは567億8,629万400円だった。
ところがダービーの最高売り上げも有馬記念に当てはめると歴代10位というレベルにすぎない。有馬記念では500億円台が6度、600億円台が1度、700億円台が5度、そして800億円台が2度も達成されている。売り上げが最高に達したのは1996年、サクラローレルが優勝した年で、その額は875億104万2,400円だった。
改めて、この時の資料を調べてみた。
馬券を発売した競馬場はレースが行われた中山をはじめ札幌、函館、福島、新潟、東京、中京、京都、阪神、小倉とJRAの10競馬場。このほか水沢、盛岡(いずれも岩手)、三条(新潟、廃止)、高崎(群馬、廃止)、佐賀、荒尾(熊本、廃止)の地方6競馬場が加わった。これに25のウインズ(場外馬券売り場)、電話投票で馬券の発売が行われた。
有馬記念の舞台となった中山競馬場では48億3,350万5,900円の売り上げがあったが、発売所別の売り上げで、現場を上回ったのがウインズ後楽園だった。この年の有馬記念では実に59億9,742万3,900円を売り上げた。東京都文京区にあってプロ野球・巨人の本拠である東京ドームのそばにある通称「黄色いビル」は抜群の集客力と集金力を持つ。
当時は金曜日に枠順が発表され、土曜日と日曜日の2日間で有馬記念の馬券を発売していた。土曜日の午前9時から午後5時まで、レース当日の午前9時から発走の午後3時20分まで、およそ14時間30分足らずの間にウインズ後楽園では59億円あまりの馬券が売られた。1時間単位で約4億円。すさまじいばかりの売れ方だ。
そんな有馬記念も当初は馬券が売れなかった。1956年の第1回は8,124万8,400円、第2回は売り上げが落ち、6,661万6,600円だった。
ご存じのように有馬記念はJRAの第2代理事長・有馬頼寧氏の提唱で始まった。「競馬にもプロ野球のオールスター戦のようにファン投票で出場馬を選ぶレースを」。第1回は有馬記念ではなく、中山グランプリの名称で12月23日に行われた。距離も現在より100メートル長い2600メートルだった。そしてファン投票2位で1番人気のメイヂヒカリが優勝した。菊花賞や天皇賞・春を制していた牡4歳は蛯名武五郎騎手に導かれ、2分43秒1のレコードタイムで駆け抜けた。そして、このレースを最後の花道に現役を引退した。
第1回中山グランプリが終わって1ヵ月もたたない1957年1月9日、有馬理事長が急性肺炎のため急逝する。中山グランプリの創設に尽力した有馬理事長を偲び、同レースを「有馬記念」と改称しようという声があがり、同年12月の第2回は「有馬記念」とした初めて行われた。
1966年からは距離2500メートルで行われるようになり、この年、売り上げは初めて10億円を超え、14億2,322万9,100円になった。その4年後の1970年に71億1,334万1,200円となり、同じ年のダービー(46億637万100円)を初めて追い抜いた。1972年には100億9,059万2,900円と100億円を突破した。ダービーの売り上げが100億円を超えるのは、その2年後だった。
1988年、僕は出版社の三省堂を訪れ、辞書の取材をしたことがある。広辞苑(岩波書店)のライバルとなるべく、この年に出版された「大辞林」についての記事を書くのが目的だった。大辞林に初めて収録された言葉の中に「有馬記念」があったのだ。創設から30年あまりを経過して、怪物レースは冬の風物詩として世間に認知されたのだ。第1回中山グランプリが始まる時、レース名を一般公募したというが、もし有馬記念が別の名称だったら、これほど有名になったかどうか怪しいものだ。つくづく「有馬記念」で良かったと思う。
その有馬記念は今年、節目の60回目を迎える。