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第178便 アベタケ,知ってる?

2009.10.01
 松たか子の主演映画「ヴィヨンの妻」の根岸吉太郎監督が,カナダで開催された第33回モントリオール世界映画祭で最優秀監督賞を受賞し,「メルシー・ボク(ありがとう)」を5回も繰り返した,と新聞で読んだ。
 根岸作品で「ばんえい競馬」を題材にした「雪に願うこと」は,2006年度のJRA馬事文化賞を受賞している。その祝いのパーティーのときと,ほかの酒のときにも,少しだけど競馬の話を根岸監督としたことのある私は,その思い方に共感していたので,「メルシー・ボク」に拍手をした。

 その思い方のひとつが,雑誌に載った根岸監督の語りから読みとれる。
 『言ってみれば,ばん馬の世界は今の時代から外れたところで生きている人たちが住んでいるところですよ。本当に自分が好きなことをやっていられる限りは続けていきたいと願っている人種。それがきつくても,収入が少なくてもいい,と考えている人たちの集団で,僕ら,映画を製作している人間(俳優さんも含めて)と共通してるんじゃないかって。
 アウトローといえば格好いいけど,人生を博打化している怪しげな集団ですよ,おたがいに。だからロケをしていても居心地がよかったですね。いままではロケに出て,たとえば交通を遮断したりなど規制をさせてもらうとき,心の中では申し訳ない,われわれのような外れた集団が普通のみなさんの生活に立ち入ってごめんなさい,と心苦しく感じていたんです。でも,今回はそれがなかった。
 もちろん最初はばん馬で働く人も,僕らの存在が邪魔だったかもしれませんが,すぐに受け入れてもらえたような気がします』

 この語りを読みながら,私は何度も頷いたのだ。そして根岸監督は馬券の話をし,クラブ法人の馬に出資し,
 『最初の馬は1勝をあげてくれたのですが,2勝目をめざしたレース前,装鞍所で突然暴れて,壁に頭をぶつけて死んでしまいました。クラブからのレポートによると精神的に何かあったとしか思えない,と。多分,自殺ですね』
 と語っている。
 『多分,自殺ですね』
 と感じる競馬好きはめったにいないだろう。私にはうれしい語りなのだ。

 「ヴィヨンの妻」は見に行こう。「雪に願うこと」の朝の調教シーンはよかったなあ。そんなふうに思いながら,この8月,十勝種馬所でリンドシェーバーとハクタイセイとダイナマイトダディに会い,幕別町の濱野日出夫さんのところでレッツゴーターキンに会い,そのあと帯広競馬場へ行ったのを思いだした。
 同行した芽室町の塚本邦博さんが北海道馬主会の浅倉功さんを紹介してくれ,平田義弘厩舎で遊ばせてもらった。馬体重が847キロのテンマビュウテイ,960キロのコウコサンネンセイ,1トンをこえるユーファンタジーなど,やさしい瞳の巨体がずらりと並んでいて私は圧倒された。

 「バンエイの馬主は,現在470人ぐらいいるんだ。生産者も北海道の各地や東北にたくさんいる。でもなぁ,今のところ,来年は大丈夫だけども,その次の年はどうなるもんだか。きびしい」
 と浅倉さんが私に教えてくれる前を,レースを終えたばかりの芦毛馬が,でっかい尻に鞭の跡をいくつも残して,のらりゆらりと引きあげて行った。
 競馬場へ行き,予想紙「ばんえい金太郎」を買い,スタンドに座った。入口にあった「平成21年度,帯広市,第8回ばんえい競馬,級別表」を見る。出走申込頭数,2歳182頭,3歳以上383頭,合計565頭だ。裏面は休養馬頭数。2歳58頭,3歳以上155頭,合計213頭である。
 馬名を見る。ミスタートカチとかベツカイローズとかミサイルキングとか,いかにもばんえい競馬らしいが,ミタコトナイ,ワタシハツヨイノヨ,オレワカネタマル,ワタシハキレイデスとか目にすると,そんな名前をほかにも見つけたくなる。オイテイカナイデ。イッテミマス。オレワセンム。オレワスゴイ。ワタシハキレイズキ。メダマ。マタキテネ。サツタマル。そんな名前を見つけながら,

 「オレヒマジン」
 と私は笑った。
 「マスクー!マスクー!」
 5段ぐらい下のベンチにいた男の子が叫んだ。次のレースでマスクという馬が走るのだった。子供がそんな声をあげちゃダメとでも言うように,母親が男の子を軽く叩いた。
 男の子がきょろきょろし,私と顔が合った。私がVサインを送ったからだった。それにしても男の子といっしょの男と女は,まだ20代の前半に見える。高校生どおしでデキチャッタのかな?そう思った私は,
 「デキチャッタ」
 という馬名もいいなあと思った。

 レースがひとつ済み,次のレースの馬券を買って私が,スタンドから馬場の方へ歩いていると,さっきマスクと叫んだ赤いTシャツの男の子がいつのまにかついてきて,途中でひろった小石を私に渡してくるのだった。ずいぶんと人なつっこい子で,
 「アベタケ,知ってる?」
 と話かけてきた。
 「アベタケ?知らない」
 「アベタケが強いんだ。アベケンも強い」
 「なに,それ?」
 「キシュ」
 「おお。そうか。よく知ってるんだな」
 と私は柵まで歩き,「ばんえい十勝」の小冊子の騎手名鑑を見た。

 阿部武臣。坂本厩舎。宮城県古川町出身。平成10年初騎乗。胴紫,白縦じま3本,袖白,紫1本輪。
 安部憲二。門脇厩舎。宮城県栗駒町出身。平成5年初騎乗。胴白,緑1本輪,袖白,緑縦じま。
 「アベケン,アベタケ」
 とつぶやく私の足もとに男の子はくっついている。
 「君は,いくつ?」
 「6歳だよ」
 「誰と来たの?」
 「パパとママ」
 「このレース,アベタケとアベケンで買ったのかなあ,パパとママは」
 「アベタケとフジノ」
 と男の子が言うので,また騎手名鑑をひらいた。

 藤野俊一。門脇厩舎。北海道森町出身。昭和61年初騎乗。胴赤,袖赤,白1本輪。
 「マサ」
 うしろから声がして,男の子はふりむき,私の足もとを離れて行った。パパが呼んだのだった。
 「これが終ったらな,アタってもハズれても帰るからな」
 と言ったパパが男の子を肩車にした。
 ゲートが開いた。

 「アベタケ!」
 パパが声をあげた。
 「アベタケ!」
 男の子も声をあげる。
 発走間近にスタンドから馬場の近くに寄っていた客たちが,馬の動きに合わせ,声をあげながら,レースに沿って歩く。私も動いたが,私が買った4番が2つ目の山を越えたのに動かず,馬券は紙クズだ。
 若い父親と母親,人なつっこい男の子の姿は見えなかった。次のレースの馬券を買いに行き,ベンチに座ると日暮れてきた。
 「アベタケ,知ってる?」
 と話かけてきた男の子を,私は天使のように感じていて,私にとってのすばらしい思い出になるだろうと,うすく染まった遠くの赤い空を眺めた。

 「本当に自分が好きなことをやっていられる限りは続けていきたいと願っている人種」の世界だから,だからこそ,続いてほしいと,私の気持ちは「夕やけに願うこと」になった。
 廃止になるということは消えてしまうこと。消えてしまうって,あまりにも残酷ではないか。「アベタケ,知ってる?」を消さないでほしい。

JBBA NEWS 2009年10月号より転載
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