烏森発牧場行き
第179便 とてもの時代
2009.11.01
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信者が祈りを捧げて眠りにつくように,私は本を手にベッドで横になる。その本は,言わば,友だちと称んでいいかな。
ここ数日の友だちは,文春文庫の,須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」だ。
(1950年代の半ばに大学を卒業し,イタリアへ留学した著者は,詩人のトゥロルド司祭を中心にしたミラノのコルシア書店に仲間として迎え入れられる。理想の共同体を夢みる三十代の友人たち,かいま見た貴族の世界,ユダヤ系一家の物語,友達の恋の落ちつき先など,書店の人々をめぐる情景を流麗に描いたエッセイ)というのが,裏表紙にある紹介の文である。
都心の目抜き通りにあるサン・カルロ教会の,軒を借りたようにある「コルシア・デイ・セルヴィ書店」のパトロンのひとりが,世界的に有名な企業の大株主のひとりであるツィア・テレーサだ。都心の目抜き通りにあるサン・カルロ教会の,軒を借りたようにある「コルシア・デイ・セルヴィ書店」のパトロンのひとりが,世界的に有名な企業の大株主のひとりであるツィア・テレーサだ。
小柄な老女のツィア・テレーサは,初めて会うのでどきまぎしている須賀敦子に,
「わたしって,どう見える?」と意表をついた質問をするのだ。
『しかし,彼女のあいさつは,それだけだった。日本人に会うのは初めてだともいわなかったし,イタリアは好きですか,とも訊かなかった。あとは,ミラノから来ていた書店の仲間たち,まだ三十そこそこのペッピーノと彼よりは五,六歳年長のガッティ,ペッピーノより二,三歳年長のルチア,そしてトゥロルド神父とで,まるで私など存在しないみたいに,彼女は会話にすべりこんでいった』
と書く須賀敦子は,それからの年月を過ごし,
『十一年にわたるミラノ暮らしで,私にとっていちばんよかったのは,この「私など存在しないみたいに」という中に,ずうっとほうりこまれていたことかもしれない。なかなか書生気分のぬけない私にとって,それは,無視された,失礼だ,という感想にはつながらなくて,あ,これはおもしろいぞ,いったい彼らはなにを話しているのだろう,と,いつも音無しの構えでみなの話に耳をかたむける側にまわった。当然,それは私が彼らの会話の深みについて行けなかったからでもあるが,私を客扱いにして,日本人用の話をする人たちの中にいなかったことは,私のためにさいわいだった』と思うのだった。
長々と引用をしてしまって申しわけないのだが,そうしないと,次に書く話につながらないので,どうかお許しいただきたい。
半月ほど前のこと,
「息子がね,どうしても競馬のことを書く仕事をしたいっていうんだよ」とさいたま市に住む外科医のS氏から電話がきた。
「書けばいいじゃないか」
「それはそうなんだが,あなたの話を聞いてみたいって言うもんだから」
「東大を出て商社に入ったというんだろ。そんな余計なことを思わずに,しっかり出世しろって」
「会ってやってよ」
「べつに,会うのはいいよ。会うのがどうこうというほどのモノでなし,それはいいんだが,だったら,自分で,手紙を書くなりしろって言ってやりな」
「息子が中学生になるころまで,よく競馬場や牧場へつれて行ったじゃない。そういう親として,息子がそんなことを言いだして,あんまりツメタイことも言えないんだよな」
「わかった」
と私は言った。その25歳になるという息子が15歳ぐらいのときに,競馬場で会ったことがある。手紙をよこしたS氏の息子が私の家にやってきたのだ。競馬が好きで好きで,最近のレース観戦記を大学ノートに書きためてあり,それと共有馬主クラブに入ってのクラブライフを書きためたのを持参していた。
「おれの話は,おれの場合はということであって,あくまで,おれの場合の話なんだよ。例えばね,最近に読んだものの中で」と私は「コルシア書店の仲間たち」のことを言い,「私など存在しないみたいに」という意味が,自分の場合,競馬のことを文章にするにあたって,最も大切だったと言うしかなかった。
私は組織の中で働いたことがないので,「私など存在しないみたいに」という意味が,組織の中では,あるのかないのか,わからない。ただ,ひとりの競馬好きとして,競馬のことを文章にするのは,私の場合,「いつも音無しの構えでみなの話に耳をかたむけ」というのが何よりも大切,と思っているのだが,
「ところが今は,ネット時代。ケイタイひとつで,情報があふれてくる時代。私など存在しないみたいにという空気にいるのが困難になってるんだろうな」そうも私は言わなければならなかった。
みんなケイタイを手にして生きているのだ。みんなが好き勝手に,ネットに書きこんで生きているのだ。私など存在しないみたいにいるのが,たぶん,とてもむずかしい時代なのだろう。
毎日王冠の翌々日,新橋駅前の汽車ポッポのある広場で,午後6時にTさん父子と待ち合わせをした。Tさんは北海道の日高地方で牧場を営んでいる。Tさんとのつきあいは長いが,24歳になる息子のSクンとは子供のころにあったきり,ほとんど初対面のようなものだ。
昨日,10年も東京暮らしだったSクンの姉が,目黒の結婚式場で新婦になったのだ。それで父子が,昼は馬主と会ったりしたあと,新橋に現れたというわけである。その広場は待ち合わせをする人であふれているので,ケイタイを使って見つけなければならない。
「やあ,やあ」
私とTさんは握手をした。お世辞など言えず,こつこつ,こつこつ,ひたすら働くことが人生のTさんは,その姿勢が身体つきにも顔つきにもなっているなあと,そんなふうに感じて私は,ちょっと力のこもった握手になってしまうのだ。
ちょこんとお辞儀をしたSクンなのだが,ちょうどケイタイで喋っていて,それが終るのを私とTさんは待った。
「おめでとうでした」
「あ,どうも」
「やっぱり,娘が嫁にゆくと,ホッとするよね」
「まあ,そうだね」
仕方なく私とTさんは会話をしているが,
「おい,急げないの?」
と本当はSクンに私は言いたいのである。3分間ぐらいだろうが,待たされてようやく,私はSクンと挨拶をする。
「コンニチワでなく,ドウモマタセテシマッテ,と言いなさい」と本当は文句をつけたいのを隠して,居酒屋「わびさび」へと私は歩いた。
「なかなか,いい感じだ」
Tさんが座って言った。小部屋の座敷で,他人は見えない。とりあえず生ビールの中を3つ注文し,メニューを見ているところへ,Sクンのケイタイが鳴った。
「ちょっとな,今,ここ,地下だから,ちょっと上へ行くわ」
とケイタイで言ってSクンは部屋を出た。
「大した用事でもないんだから,あとにすればいいのにな」
Tさんがひとりごとのように言い,生ビールが来てしまった。
「先に」
とTさんがジョッキを持ったが,
「待とうよ」
私は怒っていないように言った。
3つのジョッキのビールが,時を刻んでいるようである。
「私など存在しないみたいに」という意味など,この若者にはまったく通じないだろう,と思いながら私はSクンを待っている。
「そうか,ケイタイとか,絶えず連絡とか情報とかにくっついていて,いつだって存在しているという感情で生きているのだな,Sクンたちは。ああ,とても,とても,とてもの時代だ」
私は言葉にせずに,ビールを見ながら,そう思う。
JBBA NEWS 2009年11月号より転載
ここ数日の友だちは,文春文庫の,須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」だ。
(1950年代の半ばに大学を卒業し,イタリアへ留学した著者は,詩人のトゥロルド司祭を中心にしたミラノのコルシア書店に仲間として迎え入れられる。理想の共同体を夢みる三十代の友人たち,かいま見た貴族の世界,ユダヤ系一家の物語,友達の恋の落ちつき先など,書店の人々をめぐる情景を流麗に描いたエッセイ)というのが,裏表紙にある紹介の文である。
都心の目抜き通りにあるサン・カルロ教会の,軒を借りたようにある「コルシア・デイ・セルヴィ書店」のパトロンのひとりが,世界的に有名な企業の大株主のひとりであるツィア・テレーサだ。都心の目抜き通りにあるサン・カルロ教会の,軒を借りたようにある「コルシア・デイ・セルヴィ書店」のパトロンのひとりが,世界的に有名な企業の大株主のひとりであるツィア・テレーサだ。
小柄な老女のツィア・テレーサは,初めて会うのでどきまぎしている須賀敦子に,
「わたしって,どう見える?」と意表をついた質問をするのだ。
『しかし,彼女のあいさつは,それだけだった。日本人に会うのは初めてだともいわなかったし,イタリアは好きですか,とも訊かなかった。あとは,ミラノから来ていた書店の仲間たち,まだ三十そこそこのペッピーノと彼よりは五,六歳年長のガッティ,ペッピーノより二,三歳年長のルチア,そしてトゥロルド神父とで,まるで私など存在しないみたいに,彼女は会話にすべりこんでいった』
と書く須賀敦子は,それからの年月を過ごし,
『十一年にわたるミラノ暮らしで,私にとっていちばんよかったのは,この「私など存在しないみたいに」という中に,ずうっとほうりこまれていたことかもしれない。なかなか書生気分のぬけない私にとって,それは,無視された,失礼だ,という感想にはつながらなくて,あ,これはおもしろいぞ,いったい彼らはなにを話しているのだろう,と,いつも音無しの構えでみなの話に耳をかたむける側にまわった。当然,それは私が彼らの会話の深みについて行けなかったからでもあるが,私を客扱いにして,日本人用の話をする人たちの中にいなかったことは,私のためにさいわいだった』と思うのだった。
長々と引用をしてしまって申しわけないのだが,そうしないと,次に書く話につながらないので,どうかお許しいただきたい。
半月ほど前のこと,
「息子がね,どうしても競馬のことを書く仕事をしたいっていうんだよ」とさいたま市に住む外科医のS氏から電話がきた。
「書けばいいじゃないか」
「それはそうなんだが,あなたの話を聞いてみたいって言うもんだから」
「東大を出て商社に入ったというんだろ。そんな余計なことを思わずに,しっかり出世しろって」
「会ってやってよ」
「べつに,会うのはいいよ。会うのがどうこうというほどのモノでなし,それはいいんだが,だったら,自分で,手紙を書くなりしろって言ってやりな」
「息子が中学生になるころまで,よく競馬場や牧場へつれて行ったじゃない。そういう親として,息子がそんなことを言いだして,あんまりツメタイことも言えないんだよな」
「わかった」
と私は言った。その25歳になるという息子が15歳ぐらいのときに,競馬場で会ったことがある。手紙をよこしたS氏の息子が私の家にやってきたのだ。競馬が好きで好きで,最近のレース観戦記を大学ノートに書きためてあり,それと共有馬主クラブに入ってのクラブライフを書きためたのを持参していた。
「おれの話は,おれの場合はということであって,あくまで,おれの場合の話なんだよ。例えばね,最近に読んだものの中で」と私は「コルシア書店の仲間たち」のことを言い,「私など存在しないみたいに」という意味が,自分の場合,競馬のことを文章にするにあたって,最も大切だったと言うしかなかった。
私は組織の中で働いたことがないので,「私など存在しないみたいに」という意味が,組織の中では,あるのかないのか,わからない。ただ,ひとりの競馬好きとして,競馬のことを文章にするのは,私の場合,「いつも音無しの構えでみなの話に耳をかたむけ」というのが何よりも大切,と思っているのだが,
「ところが今は,ネット時代。ケイタイひとつで,情報があふれてくる時代。私など存在しないみたいにという空気にいるのが困難になってるんだろうな」そうも私は言わなければならなかった。
みんなケイタイを手にして生きているのだ。みんなが好き勝手に,ネットに書きこんで生きているのだ。私など存在しないみたいにいるのが,たぶん,とてもむずかしい時代なのだろう。
毎日王冠の翌々日,新橋駅前の汽車ポッポのある広場で,午後6時にTさん父子と待ち合わせをした。Tさんは北海道の日高地方で牧場を営んでいる。Tさんとのつきあいは長いが,24歳になる息子のSクンとは子供のころにあったきり,ほとんど初対面のようなものだ。
昨日,10年も東京暮らしだったSクンの姉が,目黒の結婚式場で新婦になったのだ。それで父子が,昼は馬主と会ったりしたあと,新橋に現れたというわけである。その広場は待ち合わせをする人であふれているので,ケイタイを使って見つけなければならない。
「やあ,やあ」
私とTさんは握手をした。お世辞など言えず,こつこつ,こつこつ,ひたすら働くことが人生のTさんは,その姿勢が身体つきにも顔つきにもなっているなあと,そんなふうに感じて私は,ちょっと力のこもった握手になってしまうのだ。
ちょこんとお辞儀をしたSクンなのだが,ちょうどケイタイで喋っていて,それが終るのを私とTさんは待った。
「おめでとうでした」
「あ,どうも」
「やっぱり,娘が嫁にゆくと,ホッとするよね」
「まあ,そうだね」
仕方なく私とTさんは会話をしているが,
「おい,急げないの?」
と本当はSクンに私は言いたいのである。3分間ぐらいだろうが,待たされてようやく,私はSクンと挨拶をする。
「コンニチワでなく,ドウモマタセテシマッテ,と言いなさい」と本当は文句をつけたいのを隠して,居酒屋「わびさび」へと私は歩いた。
「なかなか,いい感じだ」
Tさんが座って言った。小部屋の座敷で,他人は見えない。とりあえず生ビールの中を3つ注文し,メニューを見ているところへ,Sクンのケイタイが鳴った。
「ちょっとな,今,ここ,地下だから,ちょっと上へ行くわ」
とケイタイで言ってSクンは部屋を出た。
「大した用事でもないんだから,あとにすればいいのにな」
Tさんがひとりごとのように言い,生ビールが来てしまった。
「先に」
とTさんがジョッキを持ったが,
「待とうよ」
私は怒っていないように言った。
3つのジョッキのビールが,時を刻んでいるようである。
「私など存在しないみたいに」という意味など,この若者にはまったく通じないだろう,と思いながら私はSクンを待っている。
「そうか,ケイタイとか,絶えず連絡とか情報とかにくっついていて,いつだって存在しているという感情で生きているのだな,Sクンたちは。ああ,とても,とても,とてもの時代だ」
私は言葉にせずに,ビールを見ながら,そう思う。
JBBA NEWS 2009年11月号より転載