JBIS-サーチ

国内最大級の競馬情報データベース

第223便 長者橋で

2013.07.24
 岩田康誠騎乗のロードカナロアが安田記念を勝った翌日、2013年6月3日の未明、
 ロイスアンドロイスやワシントンカラーやテンジンショウグンの馬主だった清水道一さんが生涯を閉じた。89歳だった。
 それを知ったとき私は、庭の梅の木の梅を取りながらひと休みしていて、バケツに集めた青い梅をずいぶん見つめてしまった。
 病院のベッドに寝ている私の近くにいた清水さんが浮かんできた。そこは横浜の、窓からランドマークタワーが見える松島病院である。
 もう十数年前のこと、痔瘻で悩んでいた私に、それなら松島病院へ行きなさいと教えてくれたのが清水さんだった。
 「ここに来るのを誰にも言ってないし、会社で心配するといけないから帰るね」
 と言ったのを私はおぼえている。
 その入院ではおもしろいことがあった。診察室で私の尻を見ながら医師が、
 「ここで吉田善哉さんもわたしが診ましたよ」
 と言ったのだ。その医師は吉田善哉さんの主治医である目黒の女医先生のご主人の、松島病院副院長の鈴木先生だった。
 「なんとも不思議ですね。社台ファームの吉田善哉さんのことを書いている吉川さんが偶然に」
と鈴木先生が言い、
 「松島や ああ松島や 松島や」
と私が芭蕉の句を口にした。
 そのことを退院してから清水さんに伝えると、
 「善哉さんと吉川さんはおしりあいだ」
 と駄ジャレが返ってきた。
 清水さんは神奈川ダイハツの社長だが、競馬に関する会社は「テンジン」である。そこの番頭が神野好太郎さんで、神野さんは文章を読むのが好きで、私の文章も読んでくれていたようで、それが縁で清水さんと私のおつきあいが生まれた。
 梅とりにキリをつけ、仕事部屋でぼんやりした。ジャパンCでロイスアンドロイスが3着だったときの清水さんの輝きがよみがえってくる。
 雑誌「優駿」の1997年5月号をひらいた。ワシントンカラーが柴田善臣騎乗でクリスタルCを勝ち、清水さんのコメントが載っている。
 「いやあ、ビックリしましたよ。まさかあんな勝ち方ができるなんて、思っていませんでしたから。ロイスアンドロイスがいなくなって、さびしい思いをしていたんですが、久々に重賞に顔を出せたうえに、勝つことができてこんなにうれしいことはありません。
 この馬は松山先生に頼んで、フロリダで買ってきてもらいました。先生が、芦毛でいずれは真っ白になるから、ホワイトハウスをイメージして頭にワシントンを付けましょう、とおっしゃって、それでこの名前を付けたんです」
 読んでいるうちに、清水さんの声が聞こえた。
 「吉川さん、よかったね。心配した。
 タバコ、もうダメでしょ。(私がヘビースモーカーなのを知っている)。でもね、もういいやと思える年令まで生きて、それからまた吸えばいい」
 2005年に私が心臓の手術をして退院したあとの、清水さんからの電話である。もういいや、と思えるトシになったら、またタバコを吸える、という発想が私にはあったかかった。
 雑誌「優駿」の1998年5月号をひらいた。日経賞を江田照男騎乗で勝ったテンジンショウグンの写真を見る。12頭立て12番人気の1着。
 「タマゲタという馬名に変えましょうか」
 私が言うと、
 「ブッタマゲタだなあ」
 と清水さんは笑った。
 その年はワシントンカラーの根岸S連覇もあった。横浜の根岸に競馬場があったことのレース名である。
「横浜の人間としてうれしいなあ」
 清水さんは少年のような顔になっていた。
 雑誌「優駿」の2000年12月号をひらいた。カブトヤマ記念を買ったヘッドシップの鞍上に高山太郎騎手がいて、神野好太郎さんと佐藤全弘調教師が口取りで並ぶ写真がある。
 そう、デビュー7年目で重賞初制覇の高山騎手と、53戦目にして初挑戦の重賞を勝ったヘッドシップで苦労した坂井千明騎手も交えて、ホテルで祝いの会をし、心底うれしい清水さんの顔を私は忘れられない。
 6月5日、横浜市神奈川区での通夜で読経を聞きながら、
 「馬主を続けるというのは気苦労の連続ですけどね、思いがけずに夢のようなことが起きて、誰もいないところで、ひとりで、愉快、愉快と声にはしないでひとりごとを言って、ふふっと笑っちゃったりしちゃうことがあるので、それでやめられないんですね」
 とウィンズ横浜に近い長者橋のたもとのそば屋の二階で、清水さんが笑いながら言ったのを思いだした。
 通夜のお清めの丸テーブルに、調教師の矢野照正さん、大江原哲さん、松山康久さん、江田照男騎手、私がいた。
 「清水社長をひとことで言えば、律儀の人、ということになるね」
 と松山さんが言うテーブルは、たくさんの実業家が囲むいくつものテーブルのなかで、ひとつだけ特殊な島だと私は感じ、
 「ほとんどは会社のことで生きてきたわけだけど、競馬と会って、そこで知った世界があってよかったなあと、ときどきひとりで、馬のことや、トレセンのことや、牧場のことや、いろいろ思いだしているんですよ」
 という清水さんの語りを思いだし、私のお経を清水さんに届けるつもりで、
 「江田照男騎手もここにいて、さびしそうな顔をしていますよ」
 と心のなかで言った。
 6月6日は病院での検査が午前中にあって告別式に行けぬ私は、近日中にウィンズ横浜と神奈川ダイハツの中間にある長者橋に立ち、「清水さんは亡くなる1週間前にウィンズへ行ったそうですね」と弔辞を言い、テンジンの勝負服の「黄、青二本輪、赤袖」と色を唱え、流れのない川の水面を眺めて、おれ流の野辺送りをしようと思った。
トップへ