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第327便 ゆうさく殿

2022.03.11
 長野市の本村順子さんから手紙をもらった。中山と中京で金杯があった翌日である。
 「去年12月22日に父が亡くなり、あわただしく家族葬をし、今年になって、長いこと一人暮らしだった父の家の整理に行きました。
 10年も前に亡くなった母の仏壇を乗せたタンスの抽斗の、下着やシャツが詰まってるところに菓子箱があり、そのなかに、差出人が吉川良の、年賀状が13枚、ハガキが9枚、封書が7通ありました。あれっ、なんだろうと思ったのは、住所のあとに、高橋様方、ゆうさく殿、と宛名が書いてあったことです。
 わたしの祖父は勇作という名でしたから、そのことと何か関係がと思いましたが、とても不思議な宛名だなあと思いました。
 父は読書好きでしたから、さまざまな本や雑誌が積まれていたのですが、座り机にあった雑誌の下にあった便箋に、書きかけの手紙のようなものがありました。次のように書いてあります。
 この2年、ウインズにも競馬場にも行けず、知りあいにネットの馬券を頼んでいますが、どうも面白くありません。
 競馬を知ってから30年になりますが、その歳月のなかで、いちばんの思い出はと考えたとき、先ず浮かんだのは、新冠での夜空の星、青空の下で見ていた放牧地のステイゴールド、スタリオンの前の池のほとりのベンチでの時、吉川家?でのビールです。
 楽しいのなんのって、あのような時は、ほんとうにあったのか、夢ではないのかと、今、そんなふうに思います
ここで終わっていますが、まだこの先を書こうとしていたのでしょう」
読みおえて私は、相模原市のゆうさくさん、死んじゃったのかあ、と合掌をした。私と同年齢だから、84歳で旅立ったのだ。
 ひとり娘がいて、山形出身の人と川崎で世帯を持ち、定年になった夫は、まだ両親もいて山形に帰ったという話は、ゆうさくさんから私も聞いている。ひとり暮らしになった父を気にして、看護師として働いている娘が、月に1度ぐらいは相模原に来てくれるのだとも聞いていた。大丈夫だよ、おれには、競馬という強い味方がいるから寂しくはないと、そのように娘には言ってるのだと、ゆうさくさんは笑っていた。
 「びっくり」
 と私は順子さんに手紙を書いた。
 「ずいぶん会っていないけれど、コロナがおさまったら、またウインズか競馬場で会いたいなと思っていましたのに。びっくり。がっかり。
 ゆうさく殿、という宛名はボクのおふざけです。彼が初めて競馬を知ったのは、1991年の有馬記念で、わたしのおやじの名は勇気の勇に作品の作でゆうさく。会社の後輩に連れて行ってもらった中山競馬場で、ダイユウサクという馬が出るので、記念に、単勝を千円買ったら、勝ってしまって、それがとんでもない大穴で、配当が1万3,790円。千円が13万円に化けたのです。

 ボクとゆうさく殿が知り合ったのは、ウインズ横浜の近くの居酒屋で相席になったこと。2009年のことです。競馬にハマルきっかけのことを質問し、そのとき、ダイユウサク物語を語る70歳を過ぎている人の顔は、15歳のようで、その時からボクは、彼を、ゆうさくさんと称ぶようになりました。
 ボクは2009年の6月から9月まで、北海道新冠のビッグレッドファーム明和牧場で暮らすよと言ったら、ゆうさくさん、8月に千歳空港からレンタカーで、ボクを訪ねてきたのです。
 ダイユウサクに乗っていた騎手が熊沢重文。熊沢重文が何度も乗っていたステイゴールドにイレこんでいたというゆうさくさんは、種牡馬としてビッグレッドにいたステイゴールドを、それこそ神さまを見るようにしていました。
 ボクがビッグレッドファームの岡田繁幸さんのご好意で住んでいた家に、ゆうさくさんは3泊して、うれしくてならないようでした」
 私が返事を出した数日後、
 「お年賀状のハンコに電話番号がありましたので」
 と順子さんが電話をしてきた。
 どこといって病気もなかったのに、ゆうさくさんは行きつけの、ビルの2階にある酒場で酔っぱらい、帰りの階段で転倒して、後頭部を強く打ったのが死因だったようだ。
 「たくさんのお手紙、ありがとうございます。きっと父は、お手紙を頼りにして元気だったのだろうと想像しています」
 と順子さんが言い、
 「いや、それは、ボクも言わなければなりません。居酒屋で知りあったころ、本を読むのが好きだというので、ボクの本を送ったら、その感想を書いた手紙をもらったのです。
うれしくてボクも、ゆうさくさんに手紙を書きました。おたがい、手紙をやりとりして、なるべく元気に生きていよう   ということです。
 ボクもゆうさくさんからもらった手紙は、ほかの手紙といっしょにダンボールにありますから、見たくなったらいつでも、どうぞ、ボクの家に来てください。探して、そろえておきます」
 と私が言い、
 「行かせてください。それにわたし、いつか、父が見上げていた新冠の夜空とか、池のほとりのベンチとか、新冠というところに行ってみたいなあと思いはじめたんです。
 それに、横浜の馬券を売っている所とか、競馬場にも、父が楽しくしていた所にも行ってみたいのです。
 わたしも、あと2年で60歳。ろくに父ともつきあえなかったので、看護師という仕事はなかなか休めないのですけど、時間作って、父の人生と過ごしてみたいなあって」
 と順子さんが言った。
 電話のあと、私はウインズでの、競馬場での、新冠での、ゆうさくさんとの時間を思い出そうとした。
 川のほとりのバーで、そこの競馬好きのマスターに、馬房から外へと顔を出したステイゴールドに、あやうく噛じられそうになったときのことを、じつにいきいきと話しているゆうさくさんがよみがえってきた。
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