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第345便 父と子

2023.09.21

 2023年7月から8月、日本列島は襲いかかってくるような異常な暑さに焙られているが、猛暑は日本に限らず世界各地を襲っていて、国連のグテーレス事務総長が、地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰の時代が来た、と発言した。
 「バス停で10分待っていただけで熱中症になってしまった人もいる」というニュースが聞こえてくる8月6日、原爆投下から78年が過ぎた朝、広島での平和記念式典をテレビで見ている。
 午前8時15分、「平和の鐘」が鳴らされ、黙祷する。111カ国の駐日大使も黙祷した。
 ニンゲンという生きもの、こんなにみんなが黙祷しているのに、どうして核廃絶が出来ないのだろう。
 どうして?どうして?どうして?と思ううち、テレビには甲子園球場が映り、第105回全国高校野球選手権大会の、49代表の入場行進が始まった。
 「ああ、核兵器と高校野球」
 と言ってみる。
 「おれに何が出来るのだろう?」
 と自分に聞いてみる。セミの鳴き声が聞こえている。
 おれが核兵器廃絶を願っても、その願いは誰にも何処にも届かないのだよなあと思いながら、土浦日大と上田西の試合をテレビで見ている。
 「ああ、おれの夏。86歳の夏」
 と私は思い、少し息を止める。
 午後、アライくんが遊びにきた。ネット系企業に勤務する孫娘と会社の同僚で35歳。2歳の男の子の父親である。
 ソングラインが勝った今年の安田記念の日、アライくんは孫娘たち会社の競馬仲間と東京競馬場にきた。初対面の私に、
 「競馬が好きになって困っているアライです」
というのが最初の挨拶だった。
 その後、社台ファームの創業者の吉田善哉を書いた私の本、「血と知と地」を孫娘から借りて読んだと、その感想を便箋に5枚ほど書いて送ってきた。
 熱心に書いた感想文がうれしかったので、私はアライくんに手紙を書いた。
 「遊びに行ってもいいですか?」 
 という流れになり、8月6日、アライくんはひとりでやってきた。
 ビールで乾杯をし、
 「競馬と出会ったきっかけは?」
 と私が聞いた。
 「ちょっと話が長くなっちゃいそうなんですけど、いいですか?」
 「いいさ。おれ、競馬が好きだけど、その人が、どうして競馬を好きになったのかを聞くのも好きなんだ」
 「誰にでも話せることじゃないんです」
 とアライくんは言った。
 少し黙ったあとアライくんは、テーブルの一点を見つめるようにして軽く息を吐いた。
 「小学生のころ、自分には父親がいないのが不思議で母に、お父さんは死んじゃったのかって聞いたんですよ。生きてると思うけど、どこにいるのかわからないって母が言って、離婚という言葉を知ったんです。


 中学生のころ、どうして離婚したのかって母に聞いたら、競馬、競馬のせいって言うんです。
 競馬のせいって何だろうって知りたいから、母のお兄さんである伯父さんに聞いたら、馬券狂で、馬券で借金を作ったりして、それで君の母さんは離婚したんだって。
 それでぼくは、競馬とか馬券とかが、頭にしっかり入ってきた。
 看護師をしている母と暮らしていたアパート、横浜の野毛山動物園の近くにあって、桜木町駅へ行く途中に場外馬券所があって、ここにいる人たちのなかに、自分の父親がいるかもしれないなんて思ってました。
 高校生になって受験勉強をしながらも、ぼくの頭から競馬というのが消えなくて、今でもおぼえているのは、テレビでダービーというのを見て、キングカメハメハが勝つのを見てた。競馬って、すごくきれいなものだなあって思って、それで次の年かな、ディープインパクトがダービーを勝つのも、家でひとりで、ドキドキしながら見てた。
 馬券で借金したって、どういうことなんだろうって考えながら、大学出て就職してから競馬場へ行ってみたんです。東日本大震災の影響で、東京競馬場でやった皐月賞です。
 忘れられないです。混んでるパドックで何が何だか分からないけど人ごみのなかにいた時、となりにいたオジさんが、オルフェーヴルだ、とひとりごとを言ったんです。
 その声が神の声のように聞こえて、オルフェーヴルの単勝を買ったら勝った。泣きそうになりました。
 それでダービーも見に行きました。もうオルフェーヴルが勝つのを願う夢でいっぱい。早目に単勝馬券を買って、座れるところを見つけて腰をおろして、単勝馬券を見ながら、今日、自分の父親が、競馬場にいるかもしれないと思ったのも、忘れられない思い出です。
 スタンドが混んでいて、よく分からなかったけど、後方にいたオルフェーヴルが直線で馬群を抜いて、1着だったのは分かりました。何が何だか頭がクラクラして、涙が出てきて」
 とアライくんは言葉を詰まらせた。
 テレビに2023年8月6日の新潟8R、ダリア賞に出走する8頭が歩くパドックが映っている。
 「子供もいるし、馬券も好きには買えないけど、ボクは本当に競馬が好きですね。どうしてこんなに好きなんだろうって考えるのも好きです。
 まだ病院で働いてる母親が、不思議だ不思議だって言うんです。あなた、父親の話をいろいろ聞いて、競馬を憎むだろうって思ってたみたい。
 誰にでもそんなことは言わないけど、自分がときどき、自分の父親はオルフェーヴルですと思うときがあるんです」
 そう言ってアライくんが笑った。
 テレビでダリア賞を走るモーリスの子ジュントネフ、続いてリーチザクラウンの子のニシノオウジョが歩いている。
 黙ったアライくんがテレビを見ている。
 「ありがとう。大切な話を聞かせてくれて」
 と私は言い、乾杯の仕ぐさをした。

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