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第355便 ばんば恋しや

2024.07.11

 ときどき私は、公園のベンチに腰かけて樹木を見上げたり、足もとの小石に気を取られたりしながら、帯広の競馬場でばんえい競馬を見ている自分を夢見ていることがある。
 どうしたってジイさん、人生をふりかえる。ふりかえってばかりいるなよ、と自分で自分を叱ったりもするのだが、どうやら、ふりかえるのが人生の仕事、日常になったような気もする。
 おれ、どうして、ふと、ばんえい競馬を見ていたときの自分を思いだしているのかなあ。とても幸せなひとときとして思いだしているのかなあ、と私は考えるのだ。
 私は1965(昭和40)年から3年ほど、東京に本社のある貴金属会社の札幌営業所勤務で、札幌市中央区南3条西6丁目に住んでいた。私、30代の始めである。競馬が好きで夏の札幌開催がうれしく、休日に3歳の娘をつれて白老の社台ファームを眺めに行くのもうれしく、そのころはまだ、ばんえい競馬をやっていた岩見沢競馬場へ行くのもうれしかった。
 特に私がうれしかったのは、ばんえいの岩見沢競馬場の昼休みとかレースとレースの合間にとか場内に流れてくる三橋美智也の「リンゴ村から」とか春日八郎の「別れの一本杉」とか、美空ひばりの「港町十三番地」とか島倉千代子の「からたち日記」とか聞こえてきて、それを聞きながらコップ酒をちびちび飲んでるのが、私にはたまらなく旅情をかきたててくれたのだろう。
 競馬のことを文章にして生活するようになった40代も、私は札幌市や勇払郡早来で暮らしたことがあり、ばんえいは帯広競馬場だけになっていたので、よく帯広へ出かけた。まだ、そのころは、やはり場内に演歌が流れたりしていたよなあ。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が流れてきて、なんだか感動していたのも帯広競馬場だったよなあ。
 1976(昭和51)年に鎌倉で暮らしはじめてからも、私の道楽(と自分では言っている)は、帯広へのばんえい競馬の旅だった。時代の流れか、もう演歌が流れることなどなくなったが、ばんえい競馬を見ていると、どうしてか私は、孤独から解放されている。
 それはどうしてか。分析する能力が私にはなく、ただ、不思議、と片付けるしかない。
 そうそう、ばんえい競馬のことで、忘れられないことがあった。
 2003(平成15)年から3年ほど、「PHPビジネスレビュー」という月刊誌に、すぐれた異色の企業家を取材して書くという連載の仕事をした。その雑誌の前身は季刊誌「松下幸之助研究」。
 光学ガラス会社の社長を書いた号が発売された半月後、編集部経由で私に手紙が届いた。その会社で働く高井さんからだった。
 高井さんは競馬好きで、私が雑誌「優駿」に書いているのを知っていて、その人が自分が働く会社の社長を書いたのでびっくりしたと。
 自分は光ファイバーとかケーブルとか、ライトガイドとかイメージバンドルとか光源装置とか、ファイバースコープとか感光性ガラスとか結晶ガラスとか、特殊ガラスなどに囲まれての仕事人生なのだが、競馬場へ行って深呼吸しながら馬券を楽しむのが最高の幸せだと手紙に書いてあり、自分は北海道幕別の出身で、父はばんえい競馬の厩務員だったとも書いてあった。


 私は返事を書き、東京競馬場で60歳の高井さんと会った。それが縁で夏に、高井さんと私はふたりで、ばんえい競馬へ行く旅をした。
 高井さんの父は亡くなっていたが、知り合いの調教師がいて、私を厩舎に誘ってくれた。レースを終えたばかりの、でっかい馬体の尻に、いくつもの血の筋がある馬を見つめたりして、私には貴重な旅となった。
 「わたし、おやじががんばって東京の大学に行かせてもらえた人生なんですが、いつも特殊ガラスの仕事しながら、仕事が終わって家でビールをのんでる時など、坂を必死にのぼっている輓馬のことが動く絵になって浮かんでくることがあるんですよね」
 と帯広の居酒屋で高井さんが言ったのを、そのときの高井さんの表情、声まで、しっかりと私に残っている。2022年の夏に高井さんは他界されてしまったが、高井さんとの旅は生きている。
 帯広のばんえい競馬に行きたい。そう思うのだが、心筋梗塞の二度の手術やら胃癌の手術などして私も、自由には動けない。
 スポーツ紙で、「ばんえい帯広」の出馬表を見て、1着賞金29万円の「メラアカル初オリ曲公開記念」にシュゲンドウという名の馬が走るなとか、やはり1着賞金が29万円の「ゆめちゃん3歳おめでとう」というレースに、ピアノ(母貞姫)、マタクルサ(母アローベッキー)という名の馬が走るなとか、おもしろい馬名を見つけたりしている。
 東京競馬場で第91回日本ダービーが行われた2024年5月26日の「ばんえい帯広」の11Rは、賞金85万円の第47回大雪賞で、馬番③にヘッチャラ(父テンカムソウ、母クロカミ)、⑥にツガルノヒロイモノ(父スピードフジ、母フジノミユキ)が走るなあとか、私は東京競馬場へ向かう電車のなかで新聞を見ていた。
 2024年3月17日のばんえい競馬のクライマックス、「ばんえい記念」を勝ったのはメジロゴーリキ。ソリの重量1トン。メムロボブサップとか、オレノココロという勝ち馬もいたよなあとか思いながら車窓の景色を見ていると、帯広競馬場のスタンドで高井さんと、ビールで乾杯したときのことがよみがえってきた。
 これから日本ダービーを見に行こうというのに、おれ、もし、ばんえい競馬の馬主になれたら、どんな名前をつけようかなんて考えるのはやめなよとか思いながら私は、誰もがスマホを見ている電車内の様子を目にして、「スマホイノチ」という馬名はどうかとか、新聞を読んでいる人がひとりもいないので、「シンブンオワッタ」というのはどうかとか、どうにもならないことを考えていると、府中本町駅に電車が着いた。
 駅から競馬場への通路を行くと、何人かの係員「キューアールコードをご準備ください」と叫んでいる。ばんえいも馬名は9文字までというキマリがあるのかな?「キューアールコード」と指を折って数えると9文字。そんなことをしている自分は、やっぱり変な奴だと私は思った。

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