烏森発牧場行き
第225便 こよなきはげまし
2013.09.20
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2013年8月7日の午前のことである。苫小牧市美沢にあるノーザンホースパーク内の、結婚式場の小さな教会に、オルガンの音色が流れはじめた。
ふと、その音色に抱かれたいと思った私は目を閉じた。ただ抱かれたいと願ったのに意識は動いてしまい、
「音楽を聴くというのは、いろいろに、さまざまに思考がめぐって、真面目な時間になること」
という小林秀雄(文学者)の言葉が浮かんだ。
真面目な時間になることは人間にとってすばらしいこと。恋愛をするのも、真面目な時間になることだなあとか頭が動いて、音色に抱かれるのはあきらめた。
オルガン奏者とフルート奏者の視線が触れあったようで、フルートの音色がオルガンの音色とひとつになり、ソリストが歌いはじめる。
音色が止み、参列者が腰をあげ、再び音色が流れて、讃美歌20番「主をほめよ」の合唱になるのだが、私は讃美歌を知らないので歌えず、言葉を追いかける。その2番の、「こよなきはげまし」が映るように心に残った。
「わたしたちの国籍は天にある」
札幌宮の森教会の山本光牧師の声がした。
「わたくしたちの兄弟、吉田善哉兄20周年記念会」の始まりだ。
「イエスは言われた、私がよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」
そうです、と私は思う。私のなかで、吉田善哉さんは生きている。すると、国籍は天にあるというのも確かだが、私とすれば、国籍は人間の気持ちにあるのかもしれないなあ、と思いながら私は牧師の声を聞いている。
ノーザンテーストが、サンデーサイレンスが私の心に映った。吉田善哉さんがノーザンテーストの近くにいる。吉田善哉さんがサンデーサイレンスの近くにいる。
「善哉さんという人は、じつに、じつに、馬ひとすじの人だったなあ」
という通説が私に思いだされる。牧師が聖書のことばを伝えているのに、そんなふうに別のことを思いだしているのは失礼だ、と私は自分に言うのだけれども、吉田善哉さんの表情や言葉や声がよみがえってしまうのだ。
吉田善哉さんという人は馬ひとすじの人、という通説は正しい。しかし、馬に対するのと同じくらい、人間にも興味を向けていたと私は思う。
レストランで、近くのテーブルに男と女がいる。
「チリリンだろう」
善哉さんが小声で私に言った。
「たしかに、ぼくにも、チリリンが聞こえる」
と私がこたえる。
チリリンとは風鈴の音のこと。善哉さんと私のあいだでは、フーリンにひっかけ、フリン、不倫のことなのだ。
「ヒコーキの座席だな」
と善哉さんが笑う。ヒコーキの客席はHの次がiでなくてjになる。iは数字の1と間違えやすいので使わないようだ。
つまり、エッチのあとにアイがなくて、目的は銭だな、という善哉さんのジョークなのだ。
「どんな人だったかね?」
といっしょに新幹線に乗っているときだったか、善哉さんが自分の父親の話をしたあと、私の父親について聞いてきたことがあった。
「小さなクスリ問屋をしてましたが、あんまり喋らない人です。いちどだけ、酔っぱらって、説教みたいなことをしたので、めずらしいからおぼえてるなあ。
人間には2種類あって、はたらき者となまけ者がいる。せっかく生まれてきたんだから、はたらき者になれって」
そう私が言うと、
「いいねえ。その、せっかく生まれてきたんだからというのが、いいねえ。とてもいい」
と善哉さんがばかにうれしそうな顔になったのだった。
「それでぼくの親父は、そのあと、自分は、はたらくのがうれしくなって、休まない男でなくて、休めない男になってしまったと言って、そんなことを言ったことがない親父だから、ぼくはうれしくなって、しっかりはっきり、いつまでも、そのときの父親をおぼえてるんです」
と私が言い、
「おお、わたしも、休めない男だね」
と善哉さんはひとりごとのように言ったのだ。
讃美歌312番、「いつくしみふかき」の合唱になった。この312番は歌えるのだが、歌わずに私は、「こよなきはげまし」ということばに思いを向けていて、
「いいねえ、せっかく生まれてきたんだからというのが、いいねえ」
とうれしくなった吉田善哉さんという人とのひとときが、私にとって、「こよなきはげまし」になったなあと、感謝の念が湧いてきた。
最前列に和子夫人の背中が見える。93歳になられたのかなあ。そのとなりに社台ファームの吉田照哉さん。並んでノーザンファームの吉田勝己さん、追分ファームの吉田晴哉さんの背中が見え、写真でこちらを見ている吉田善哉さんとの家族が、「いつくしみ深き」の合唱に包まれているようだった。
私は讃美歌312番の、
「労りたまわん」
という言葉が、なんだかわけもなく好きなのである。「いたわりたまわん」を失ってしまえば、私など、小さき者、どう生きていてよいのか、不安だけになってしまうと恐れているからだろう。
「オルガンの音よ、フルートの音よ、ソリストの歌声よ、牧師のことばよ」
と私は寄りそうような気持ちになり、吉田善哉さんと縁のあったことに、
「ありがとうございます」
と挨拶をした。
記念式が終わり、外に出て、くもり空の下、参列者全員の記念写真ということになったが、照哉さん、勝己さん、晴哉さんの顔が、父親といっしょにいる少年のようになっていた。
ふと、その音色に抱かれたいと思った私は目を閉じた。ただ抱かれたいと願ったのに意識は動いてしまい、
「音楽を聴くというのは、いろいろに、さまざまに思考がめぐって、真面目な時間になること」
という小林秀雄(文学者)の言葉が浮かんだ。
真面目な時間になることは人間にとってすばらしいこと。恋愛をするのも、真面目な時間になることだなあとか頭が動いて、音色に抱かれるのはあきらめた。
オルガン奏者とフルート奏者の視線が触れあったようで、フルートの音色がオルガンの音色とひとつになり、ソリストが歌いはじめる。
音色が止み、参列者が腰をあげ、再び音色が流れて、讃美歌20番「主をほめよ」の合唱になるのだが、私は讃美歌を知らないので歌えず、言葉を追いかける。その2番の、「こよなきはげまし」が映るように心に残った。
「わたしたちの国籍は天にある」
札幌宮の森教会の山本光牧師の声がした。
「わたくしたちの兄弟、吉田善哉兄20周年記念会」の始まりだ。
「イエスは言われた、私がよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」
そうです、と私は思う。私のなかで、吉田善哉さんは生きている。すると、国籍は天にあるというのも確かだが、私とすれば、国籍は人間の気持ちにあるのかもしれないなあ、と思いながら私は牧師の声を聞いている。
ノーザンテーストが、サンデーサイレンスが私の心に映った。吉田善哉さんがノーザンテーストの近くにいる。吉田善哉さんがサンデーサイレンスの近くにいる。
「善哉さんという人は、じつに、じつに、馬ひとすじの人だったなあ」
という通説が私に思いだされる。牧師が聖書のことばを伝えているのに、そんなふうに別のことを思いだしているのは失礼だ、と私は自分に言うのだけれども、吉田善哉さんの表情や言葉や声がよみがえってしまうのだ。
吉田善哉さんという人は馬ひとすじの人、という通説は正しい。しかし、馬に対するのと同じくらい、人間にも興味を向けていたと私は思う。
レストランで、近くのテーブルに男と女がいる。
「チリリンだろう」
善哉さんが小声で私に言った。
「たしかに、ぼくにも、チリリンが聞こえる」
と私がこたえる。
チリリンとは風鈴の音のこと。善哉さんと私のあいだでは、フーリンにひっかけ、フリン、不倫のことなのだ。
「ヒコーキの座席だな」
と善哉さんが笑う。ヒコーキの客席はHの次がiでなくてjになる。iは数字の1と間違えやすいので使わないようだ。
つまり、エッチのあとにアイがなくて、目的は銭だな、という善哉さんのジョークなのだ。
「どんな人だったかね?」
といっしょに新幹線に乗っているときだったか、善哉さんが自分の父親の話をしたあと、私の父親について聞いてきたことがあった。
「小さなクスリ問屋をしてましたが、あんまり喋らない人です。いちどだけ、酔っぱらって、説教みたいなことをしたので、めずらしいからおぼえてるなあ。
人間には2種類あって、はたらき者となまけ者がいる。せっかく生まれてきたんだから、はたらき者になれって」
そう私が言うと、
「いいねえ。その、せっかく生まれてきたんだからというのが、いいねえ。とてもいい」
と善哉さんがばかにうれしそうな顔になったのだった。
「それでぼくの親父は、そのあと、自分は、はたらくのがうれしくなって、休まない男でなくて、休めない男になってしまったと言って、そんなことを言ったことがない親父だから、ぼくはうれしくなって、しっかりはっきり、いつまでも、そのときの父親をおぼえてるんです」
と私が言い、
「おお、わたしも、休めない男だね」
と善哉さんはひとりごとのように言ったのだ。
讃美歌312番、「いつくしみふかき」の合唱になった。この312番は歌えるのだが、歌わずに私は、「こよなきはげまし」ということばに思いを向けていて、
「いいねえ、せっかく生まれてきたんだからというのが、いいねえ」
とうれしくなった吉田善哉さんという人とのひとときが、私にとって、「こよなきはげまし」になったなあと、感謝の念が湧いてきた。
最前列に和子夫人の背中が見える。93歳になられたのかなあ。そのとなりに社台ファームの吉田照哉さん。並んでノーザンファームの吉田勝己さん、追分ファームの吉田晴哉さんの背中が見え、写真でこちらを見ている吉田善哉さんとの家族が、「いつくしみ深き」の合唱に包まれているようだった。
私は讃美歌312番の、
「労りたまわん」
という言葉が、なんだかわけもなく好きなのである。「いたわりたまわん」を失ってしまえば、私など、小さき者、どう生きていてよいのか、不安だけになってしまうと恐れているからだろう。
「オルガンの音よ、フルートの音よ、ソリストの歌声よ、牧師のことばよ」
と私は寄りそうような気持ちになり、吉田善哉さんと縁のあったことに、
「ありがとうございます」
と挨拶をした。
記念式が終わり、外に出て、くもり空の下、参列者全員の記念写真ということになったが、照哉さん、勝己さん、晴哉さんの顔が、父親といっしょにいる少年のようになっていた。