烏森発牧場行き
第226便 別海、そして奥行臼駅
2013.10.18
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もう30年もつきあっている競馬友だちのタキさんが、北海道夕張郡由仁町に住んでいる。
タキさんは山口県下関市の出身だが、神戸の大学を出てすぐ北海道に来て、北海道のあちらこちらで高校の国語教師をし、60歳で退職して、今、64歳だ。大学生のときに北海道をひとり旅して風景に惚れ、北海道での人生になったのだ。
私とタキさんが知りあったのは、ダートだった札幌記念を田島良保騎乗のオーバーレインボーが勝ったころの札幌競馬場でだ。パドックかスタンドで会話をし、気が合って帰りにススキノあたりでビールをのんだのだろう。それから手紙のやりとりが始まり、おたがいの家へ遊びに行くようになった。
2013年の春、私はタキさんと、日帰り温泉の「由仁の湯」に出かけた帰り道、
「ちょっと停めて」
とハンドルを握っているタキさんに頼んだ。「一級河川石狩川水系」という表示の下に、「ヤリキレナイ川」と書いた看板を見たからである。
「ヤリキレナイ川とはまいったなあ」
車をおりて、「アイヌ語河川名・ヤンケ・ナイ又はイヤル・キナイ」、「意味・魚の住まない川又は片割れの川」と看板の字を読んだ。その近くを歩いてみると、草むらで隠れるように、小さな川が流れていた。
「おれのなかにも、いろいろとヤリキレナイという川が流れているんだけども、そのヤリキレなさのひとつを晴らしたくて、この2年ほど、別海へ行かなくちゃって、ずうっと思いを引きずってるんだ」
タキさんの家に泊めてもらった晩に、酒をのみながら私が言った。するとタキさんが、
「ぼくも別海へ行きたいんですよ。ぼくは大学生のとき、19歳だったけど、ドビンボウ旅行で、釧路から厚床へ行き、そこから中標津へ行く標津線というのに乗って、どうしてだか奥行臼という駅で下車したんですよ。もう標津線は廃線になってしまったけど、何日か前にテレビで、当時の奥行臼駅が保存されてるの見たんです。その駅に会いに行こうと思った。
たしか、奥行臼の次が別海という駅だった気がする。ぼくも別海の、野付半島のトドワラをまたいで歩いた記憶があるんですよ」
とうれしそうな顔になった。
「おれが薬品問屋で働いていた昭和40年代のことなんだ。リユウズキという馬が有馬を勝った年の暮れだよ。おれの取引先で、でっかい不渡手形を食らった。それでリユウズキが忘れられないんだけどね。
人生、ほんとに嫌になった。薬品の業界紙の記者で競馬友だちのタケムラが、こんどの休みに故郷の別海へ帰るから、一緒に行かないかって声をかけてくれた。救われたなあ。
うれしかった。3日ぐらい、おれ、別海の日の出や夕やけを見てた。救われた。
それから長い月日が過ぎたけど、3年前かな、70歳のタケムラが川越の家で自殺しちゃった。
おれね、なんだか、タケムラのために、別海の景色を眺めに行かないと、ヤリキレナイという気持ちなんだよ」
そうタキさんに説明している私に、東京競馬場や中山競馬場で、もう若くはないタケムラがパドックで馬を見ている姿が浮かんでいる。
2013年9月、タキさんと私はシエンタという車で、由仁を出発。東千歳で高速道路に入り、まずは300キロ先の足寄をめざした。
「タケムラもタキさんも、競馬で知りあって、つきあいが生まれた。競馬って不思議だ。じいさんになって、つくづくそう思う」
と私が言い、
「それに、何年やっても、ぼくは馬券が当たらない。不思議なくらい、当たらない。当たらないのに、週末がくると馬券を買ってる。人生は不思議で出来てる」
とタキさんが言った。
いくつもいくつもトンネルを過ぎる。4キロをこえるトンネルもいくつかある。10カ所以上のトンネルをこえ、トンネルの距離を合わせると、30キロぐらいになるのではないか。
足寄を過ぎ、アイヌ語で「大きな老沼」というオンネト-のあたり、車の前にエゾ雷鳥が2羽いて、近くから鹿の鳴き声がする。高さが2メートルをこえる螺湾蕗の群れには、私とタキさんの声が出た。
阿寒湖畔で味噌ラーメンを食べ、霧が濃いので摩周湖は通過し、中標津へ入った牧草地に丹頂鶴が2羽いるのを発見し、
「馬券が当たった気分」
とタキさんが笑った。
「大丈夫かなあ?」
私は450キロをこえる運転のタキさんの体力を心配する。
「大丈夫。ぼくの人生、馬券で鍛えられてる。ハズレ馬券で体力と気力に恵まれる」
「すごい答弁」
と私が笑う。
「ちょっと回り道になるけど、羅臼方面へ走って、薫別川を見に行っていいですかね。若いころに、そこで鮭が海から入ってくるのを見たことがあって、きらきら、夢みたいにおぼえてる」
そうタキさんが言い、薫別川のほとりまで行った。まだ鮭の騒ぎには時期が早く、時折にカラフトマスが浅い川から跳ねた。
カモメが啼いている。
「ああ、今夜は別海で酒だよ、タケムラくん」
私は海へ言った。
シエンタは別海へと走る。
「スピードシンボリ。アカネテンリュウ」
若いころにタケムラと競馬場で見た馬の名前を私は言ってみた。
「明日、19歳のときの駅に会えるんだなあ。奥行臼、奥行臼」
と歌うようにタキさんが言った。
そう、皐月賞でアンライバルドとトライアンフマーチの大穴馬単を500円取ったぞって、タケムラがワインを送ってきたことがあったよなあと、日暮れの別海にシエンタが入ったとき、そう私は思い、あんな楽しいことがあったのに、ひとり暮らしの孤独に負けたというのか、どうして自殺したのだ、と私はタケムラに聞いていた。
タキさんは山口県下関市の出身だが、神戸の大学を出てすぐ北海道に来て、北海道のあちらこちらで高校の国語教師をし、60歳で退職して、今、64歳だ。大学生のときに北海道をひとり旅して風景に惚れ、北海道での人生になったのだ。
私とタキさんが知りあったのは、ダートだった札幌記念を田島良保騎乗のオーバーレインボーが勝ったころの札幌競馬場でだ。パドックかスタンドで会話をし、気が合って帰りにススキノあたりでビールをのんだのだろう。それから手紙のやりとりが始まり、おたがいの家へ遊びに行くようになった。
2013年の春、私はタキさんと、日帰り温泉の「由仁の湯」に出かけた帰り道、
「ちょっと停めて」
とハンドルを握っているタキさんに頼んだ。「一級河川石狩川水系」という表示の下に、「ヤリキレナイ川」と書いた看板を見たからである。
「ヤリキレナイ川とはまいったなあ」
車をおりて、「アイヌ語河川名・ヤンケ・ナイ又はイヤル・キナイ」、「意味・魚の住まない川又は片割れの川」と看板の字を読んだ。その近くを歩いてみると、草むらで隠れるように、小さな川が流れていた。
「おれのなかにも、いろいろとヤリキレナイという川が流れているんだけども、そのヤリキレなさのひとつを晴らしたくて、この2年ほど、別海へ行かなくちゃって、ずうっと思いを引きずってるんだ」
タキさんの家に泊めてもらった晩に、酒をのみながら私が言った。するとタキさんが、
「ぼくも別海へ行きたいんですよ。ぼくは大学生のとき、19歳だったけど、ドビンボウ旅行で、釧路から厚床へ行き、そこから中標津へ行く標津線というのに乗って、どうしてだか奥行臼という駅で下車したんですよ。もう標津線は廃線になってしまったけど、何日か前にテレビで、当時の奥行臼駅が保存されてるの見たんです。その駅に会いに行こうと思った。
たしか、奥行臼の次が別海という駅だった気がする。ぼくも別海の、野付半島のトドワラをまたいで歩いた記憶があるんですよ」
とうれしそうな顔になった。
「おれが薬品問屋で働いていた昭和40年代のことなんだ。リユウズキという馬が有馬を勝った年の暮れだよ。おれの取引先で、でっかい不渡手形を食らった。それでリユウズキが忘れられないんだけどね。
人生、ほんとに嫌になった。薬品の業界紙の記者で競馬友だちのタケムラが、こんどの休みに故郷の別海へ帰るから、一緒に行かないかって声をかけてくれた。救われたなあ。
うれしかった。3日ぐらい、おれ、別海の日の出や夕やけを見てた。救われた。
それから長い月日が過ぎたけど、3年前かな、70歳のタケムラが川越の家で自殺しちゃった。
おれね、なんだか、タケムラのために、別海の景色を眺めに行かないと、ヤリキレナイという気持ちなんだよ」
そうタキさんに説明している私に、東京競馬場や中山競馬場で、もう若くはないタケムラがパドックで馬を見ている姿が浮かんでいる。
2013年9月、タキさんと私はシエンタという車で、由仁を出発。東千歳で高速道路に入り、まずは300キロ先の足寄をめざした。
「タケムラもタキさんも、競馬で知りあって、つきあいが生まれた。競馬って不思議だ。じいさんになって、つくづくそう思う」
と私が言い、
「それに、何年やっても、ぼくは馬券が当たらない。不思議なくらい、当たらない。当たらないのに、週末がくると馬券を買ってる。人生は不思議で出来てる」
とタキさんが言った。
いくつもいくつもトンネルを過ぎる。4キロをこえるトンネルもいくつかある。10カ所以上のトンネルをこえ、トンネルの距離を合わせると、30キロぐらいになるのではないか。
足寄を過ぎ、アイヌ語で「大きな老沼」というオンネト-のあたり、車の前にエゾ雷鳥が2羽いて、近くから鹿の鳴き声がする。高さが2メートルをこえる螺湾蕗の群れには、私とタキさんの声が出た。
阿寒湖畔で味噌ラーメンを食べ、霧が濃いので摩周湖は通過し、中標津へ入った牧草地に丹頂鶴が2羽いるのを発見し、
「馬券が当たった気分」
とタキさんが笑った。
「大丈夫かなあ?」
私は450キロをこえる運転のタキさんの体力を心配する。
「大丈夫。ぼくの人生、馬券で鍛えられてる。ハズレ馬券で体力と気力に恵まれる」
「すごい答弁」
と私が笑う。
「ちょっと回り道になるけど、羅臼方面へ走って、薫別川を見に行っていいですかね。若いころに、そこで鮭が海から入ってくるのを見たことがあって、きらきら、夢みたいにおぼえてる」
そうタキさんが言い、薫別川のほとりまで行った。まだ鮭の騒ぎには時期が早く、時折にカラフトマスが浅い川から跳ねた。
カモメが啼いている。
「ああ、今夜は別海で酒だよ、タケムラくん」
私は海へ言った。
シエンタは別海へと走る。
「スピードシンボリ。アカネテンリュウ」
若いころにタケムラと競馬場で見た馬の名前を私は言ってみた。
「明日、19歳のときの駅に会えるんだなあ。奥行臼、奥行臼」
と歌うようにタキさんが言った。
そう、皐月賞でアンライバルドとトライアンフマーチの大穴馬単を500円取ったぞって、タケムラがワインを送ってきたことがあったよなあと、日暮れの別海にシエンタが入ったとき、そう私は思い、あんな楽しいことがあったのに、ひとり暮らしの孤独に負けたというのか、どうして自殺したのだ、と私はタケムラに聞いていた。