烏森発牧場行き
第276便 雨の南武線で
2017.12.18
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10月29日、朝、目をさますと6時半。ベッドで横になったままカーテンをあけると、雨。止みそうもない雨。夜には台風22号が関東上陸の予報。
「天皇賞なんだよ。かんべんしてくれよ。
おい、先週の菊花賞も大雨じゃないか。いったい、誰のせいでこんなことになるんだ」
がっかりして眺めている窓ごしのネズミ色の空に、雨に打たれて耐えている東京競馬場のケヤキの木が映った。
10時すぎ、武蔵小杉駅で立川行きの南武線に乗る。川崎から乗っていた顔見知りの、スポーツ紙の若い競馬記者が笑顔をくれて、そのとなりが空いていたので並んで座った。
「天気がよければ、こんなにすいてないよね。電車が」
と私が言い、
「そうですね」
スマホを見ている彼から返事はきたが会話にならない。簡単に話かけてはなるまいぞ、と私は意識した。
駅が三つ過ぎたあたり、彼がスマホを閉じたので、
「昨日、東京でルメールが7勝。びっくり」
と私は言ってみる。
「人気馬ばかりだった」
そう声が返ってきたが、私の「びっくり」には反応がない。
「それに、もうひとつびっくりがあって、12レースのうちの7つのレースの勝ち馬が、ノーザンファームの生産馬。それもびっくり」
と私が言い、
「そうでしたっけ」
と返事があったが、この「びっくり」にも彼はノッてこないなと思った。
また彼がスマホを触りはじめたので私は黙った。今日の天皇賞で1番人気になるだろうキタサンブラックの新馬戦に乗っていたのが後藤浩輝だったと、そんなことも言ってみたくなっていたが、黙った。
競馬場に着いて、通路で声をかけあったターフライターの鶴木遵さんと、コーヒーショップに座った。
「競馬って、馬券を100円でも買っていないと、他人事になっちゃうのがシャクだよね」
と鶴木さんが笑った。
「ほんと。馬券買わないと、ヒトゴトという名の馬がレースをしている」
そう私は言いながら、鶴木さんの「シャクだよね」は名ゼリフだと思った。
フジビュースタンドを通り抜けて、メモリアルスタンドの4階へ行き、窓ごしに、道路をひとつはさんだ装鞍所の景色を眺めた。 木立があって、その周囲を、鞍をつけた馬が人に引かれて歩いている景色は、私の好きで仕方のない絵で、そこでしばらく眺めるのが、競馬場へ来た日への、私の最初のあいさつなのだ。
雨が降りしきっている。これからパドックへと向かう馬と人が、木立のまわりを歩いている。いつ見ても感じるものが心を流れる。ときどき、私と同様に、そこでしばらく立ち止まってく装鞍所を眺めている人がいて、言葉を交わすわけでもないのに、友情を抱く。
馬券をやりながら、天皇賞の前の10R紅葉ステークスまで1階スタンドにいる。この雨のなか、笑いながら、明るく幸せそうに競馬場を楽しんでいる若者たち、おじさんたちの近くにいるのも、じいさんになった私の幸せなのだ。
天皇賞のパドックになる。今日はパドックの馬を見るのはあきらめ、屋根のあるぎりぎりの所まで行って、傘をさしてパドックを囲んでいる群衆を背後から見ていようと決めた。
すごい雨だ。一羽のカラスがパドックの上空を横切った。2017年10月29日、大げさかもしれないと自嘲しながら、「じいさん、生きてる」と私は、飛び去ったカラスに言った。
キタサンブラックがサトノクラウンにクビ差だけ勝った天皇賞・秋を、私は1階スタンドのテレビで見た。となりにいた白髪の男が、
「ロンドン!ロンドン!」
と前半までは声をあげ、やがて声を出さなくなり、レースが決着すると、
「やっぱりブラックか」
とひとりごとを言った。田辺が乗ったグレーターロンドンは馬群に沈んだ。
鎌倉へ6時すぎまでに戻らなければならない用事があり、最終の三峰山特別の馬単を3点だけ買い、府中本町駅から川崎行きの南武線に乗った。
吊革につかまっていたが、運よく登戸駅で空席にありついた。
「出遅れましたよね。キタサンブラック。勝てないと思いましたよ。ところが武豊、いつのまにかうまい位置につけて、早目に抜けだした。
武豊が天才と言われるけど、よく判らなかったのに、その意味が、今日は自分にも判ったような気がした」
と私のとなりにいる青年が、連れの老人に言った。そうか、この青年、びっくりしたのだと、そう私は思った。
「豊が凄さを見せつけてくれると、わたしなんか、どうしたってタケクニを思いだしちゃうんだなあ。タケクニというのは、武邦彦。豊の父親で、ターフの魔術師といわれてね。トウショウボーイとかロングエースとかで大レースを勝った。
競馬は血統が筋だが、人も血統なのかもしれないなあ。わたしなんか、じいさん、おやじに続いて、相変わらず、銭に縁のない職人だものな」
と老人が青年に言っている。
大雨の日の夕ぐれ、南武線で青年と老人の会話を自分は聞いているな、と私は意識をした。
武蔵小杉駅で下車した私は、
「東京の最終の結果を教えて」
と競馬場に来ていた友だちにケイタイをした。
私が買った馬単がアタっていて、ケイタイを切ったあと、誰にも聞こえぬように、「ヤッホー!」と声をあげた。
ケイタイで聞いた三峰山特別の配当で、今日の私の馬券は、プラスマイナス、ゼロだ。
乗りかえる横須賀線まで、かなりの距離だ。じいさんでも、プラマイゼロなら、なんとか歩ける。そう思って私は、笑いそうになった。
「天皇賞なんだよ。かんべんしてくれよ。
おい、先週の菊花賞も大雨じゃないか。いったい、誰のせいでこんなことになるんだ」
がっかりして眺めている窓ごしのネズミ色の空に、雨に打たれて耐えている東京競馬場のケヤキの木が映った。
10時すぎ、武蔵小杉駅で立川行きの南武線に乗る。川崎から乗っていた顔見知りの、スポーツ紙の若い競馬記者が笑顔をくれて、そのとなりが空いていたので並んで座った。
「天気がよければ、こんなにすいてないよね。電車が」
と私が言い、
「そうですね」
スマホを見ている彼から返事はきたが会話にならない。簡単に話かけてはなるまいぞ、と私は意識した。
駅が三つ過ぎたあたり、彼がスマホを閉じたので、
「昨日、東京でルメールが7勝。びっくり」
と私は言ってみる。
「人気馬ばかりだった」
そう声が返ってきたが、私の「びっくり」には反応がない。
「それに、もうひとつびっくりがあって、12レースのうちの7つのレースの勝ち馬が、ノーザンファームの生産馬。それもびっくり」
と私が言い、
「そうでしたっけ」
と返事があったが、この「びっくり」にも彼はノッてこないなと思った。
また彼がスマホを触りはじめたので私は黙った。今日の天皇賞で1番人気になるだろうキタサンブラックの新馬戦に乗っていたのが後藤浩輝だったと、そんなことも言ってみたくなっていたが、黙った。
競馬場に着いて、通路で声をかけあったターフライターの鶴木遵さんと、コーヒーショップに座った。
「競馬って、馬券を100円でも買っていないと、他人事になっちゃうのがシャクだよね」
と鶴木さんが笑った。
「ほんと。馬券買わないと、ヒトゴトという名の馬がレースをしている」
そう私は言いながら、鶴木さんの「シャクだよね」は名ゼリフだと思った。
フジビュースタンドを通り抜けて、メモリアルスタンドの4階へ行き、窓ごしに、道路をひとつはさんだ装鞍所の景色を眺めた。 木立があって、その周囲を、鞍をつけた馬が人に引かれて歩いている景色は、私の好きで仕方のない絵で、そこでしばらく眺めるのが、競馬場へ来た日への、私の最初のあいさつなのだ。
雨が降りしきっている。これからパドックへと向かう馬と人が、木立のまわりを歩いている。いつ見ても感じるものが心を流れる。ときどき、私と同様に、そこでしばらく立ち止まってく装鞍所を眺めている人がいて、言葉を交わすわけでもないのに、友情を抱く。
馬券をやりながら、天皇賞の前の10R紅葉ステークスまで1階スタンドにいる。この雨のなか、笑いながら、明るく幸せそうに競馬場を楽しんでいる若者たち、おじさんたちの近くにいるのも、じいさんになった私の幸せなのだ。
天皇賞のパドックになる。今日はパドックの馬を見るのはあきらめ、屋根のあるぎりぎりの所まで行って、傘をさしてパドックを囲んでいる群衆を背後から見ていようと決めた。
すごい雨だ。一羽のカラスがパドックの上空を横切った。2017年10月29日、大げさかもしれないと自嘲しながら、「じいさん、生きてる」と私は、飛び去ったカラスに言った。
キタサンブラックがサトノクラウンにクビ差だけ勝った天皇賞・秋を、私は1階スタンドのテレビで見た。となりにいた白髪の男が、
「ロンドン!ロンドン!」
と前半までは声をあげ、やがて声を出さなくなり、レースが決着すると、
「やっぱりブラックか」
とひとりごとを言った。田辺が乗ったグレーターロンドンは馬群に沈んだ。
鎌倉へ6時すぎまでに戻らなければならない用事があり、最終の三峰山特別の馬単を3点だけ買い、府中本町駅から川崎行きの南武線に乗った。
吊革につかまっていたが、運よく登戸駅で空席にありついた。
「出遅れましたよね。キタサンブラック。勝てないと思いましたよ。ところが武豊、いつのまにかうまい位置につけて、早目に抜けだした。
武豊が天才と言われるけど、よく判らなかったのに、その意味が、今日は自分にも判ったような気がした」
と私のとなりにいる青年が、連れの老人に言った。そうか、この青年、びっくりしたのだと、そう私は思った。
「豊が凄さを見せつけてくれると、わたしなんか、どうしたってタケクニを思いだしちゃうんだなあ。タケクニというのは、武邦彦。豊の父親で、ターフの魔術師といわれてね。トウショウボーイとかロングエースとかで大レースを勝った。
競馬は血統が筋だが、人も血統なのかもしれないなあ。わたしなんか、じいさん、おやじに続いて、相変わらず、銭に縁のない職人だものな」
と老人が青年に言っている。
大雨の日の夕ぐれ、南武線で青年と老人の会話を自分は聞いているな、と私は意識をした。
武蔵小杉駅で下車した私は、
「東京の最終の結果を教えて」
と競馬場に来ていた友だちにケイタイをした。
私が買った馬単がアタっていて、ケイタイを切ったあと、誰にも聞こえぬように、「ヤッホー!」と声をあげた。
ケイタイで聞いた三峰山特別の配当で、今日の私の馬券は、プラスマイナス、ゼロだ。
乗りかえる横須賀線まで、かなりの距離だ。じいさんでも、プラマイゼロなら、なんとか歩ける。そう思って私は、笑いそうになった。