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第171便 国分寺のオズさん

2009.03.01
 東京競馬場へ行くとき,川崎駅で立川行きの南武線に乗る。下車する府中本町駅まで,駅の数は19。時間は45分かかる。もう何十年も前から,どうして準急と急行とかがなくて,各駅停車しかないのだろうと思う。そうか,行くときは競馬新聞をゆっくりと読み,たいてい損をしている帰りは,ゆっくりと頭を冷やせということかな?
 川崎駅を出て10分ぐらいした向河原駅あたり,「百年に一度の経済ピンチと言うけど,あいかわらず競馬をしに行く人がいるのだから,存外,人間の社会というのは大丈夫なものさ」右どなりに座っている老紳士が,並んでいる老紳士に言っている。ふたりとも黒いネクタイ。法事に行くのだろう。

 「君は競馬をやらないの?」
 「やらない」
 「この沿線に住んでいて,よく誘惑にのらないものだねえ」
 「そう思うかい。でも,わたしの友人で,競馬場のな,あのスタートのときの音楽みたいなものが,風向きによっては聞こえるぐらい近くに住んでいるのに,もう30年そこに住んでいて,いちども競馬場へ入ったことがないというのがおるよ」
 「そうかね。そんな近くにいたら,いちどぐらい覗きたくなるだろうに」
 「こわいこわい。あやうきに近寄らずだ。アクショといえばアクショだからね」
 「ハハハ」
 「ハハハ」

 意味なく笑うなよ,と思いながら私は,頭のなかでアクショを悪所,と漢字で書きなおし,ひろげていた競馬新聞を二つに折った。どんな会話をしても自由だけれど,おれなら,となりで競馬新聞を読んでる奴がいたら,今の会話はしないね。それにどうしたって聞こえてしまう声では言わない。ひそかに私は溜息をつき,腕を組んで目を閉じ,2009年2月7日,土曜日,朝,競馬を知らない老人たちと並んで電車に座り,競馬場へ行く晴れた日,と意識をした。

 目をあけて周囲を眺める。まだ朝だからかもしれないが,競馬新聞をひろげている人が2人しか見つからない。昔はもっと,この時間からいたような気がするが,何かにつけ,昔はもっと,と思うトシに自分がなっているのかも,と私はまた目をつぶった。

 「しかしねぇ,人間というのはおもしろい生きものだなあ。競馬をやって,結局は損をするのだろうに,損をするからって,やめない人もたくさんいるってことだろ」となりの老紳士が言う。そのとなりの老紳士が声を返さないので私はホッとする。あなたにおれのことを,おもしろい生きものだとか言われたくないねと私は,目をあけて老紳士の横顔をしっかりと盗み見た。

 「競馬も見ないで,よく人生の時間がつぶれるね」と言いたかったが,そんなナマイキを言っちゃおしめえよ,と私は自分に言い聞かせた。駅からの長い屋根付き通路を歩いて競馬場に入ると,いつもやっていることは続けなければという私のキザで,1コーナーに近い柵に凭れてひとレースを見るのだ。

 晴れて,そんなには寒くなくて,馬場がひろがる。スタンドの屋根や窓やゴンドラや集まってきた人たちと同じ青空の下にいる。でっかい仕掛け装置のひと隅におれもいるぜと,そう思うと,どうして愉快になるのかわからないけれども,このキザな習慣が私には大切なのだ。

 「ちょっと,すみません」声がかかった。私のまわりに人はいない。私が声をかけられたのだ。
 「すみませんが,シャッターをお願いできますか」私にカメラを渡したのは,背が高くて白髪まじりの,灰色のコートを着た人である。60代の半ばだろう。
 「競馬場にいる自分の写真が一枚ほしくて,それで今日はカメラを持って」
 「そうそう,競馬場にいる自分の写真って無いものなんですよね」と私が言い,カメラをかまえて,いろいろに背景を変えて,3度シャッターを切った。この人,誰かに似ている。ああ,本の写真で何度も見ている,小津安二郎,映画監督の小津安二郎だ。
 「お近くですか?」私が聞いた。
 「国分寺です」その人が静かな声で言った。国分寺のオズさん,と私は思った。

 第1Rがスタートした。私とオズさんはそこで見ることになった。16頭立て9番人気の,郷原騎乗のスノーレーザーが勝ち,馬単は2万8千なんぼの大穴である。「ゴーハラというと,わたしにはゴーハラヒロユキで,オペックホースのゴーハラで」とオズさんはハズレ馬券を見ながら苦笑した。

 そのオズさんと,あとで私は再開するのである。第3Rのパドックを見て,馬券を買って,1コーナーよりの空席に腰をおろすと,「あらあら」ほんの近くにオズさんもいたのだった。私の方からとなりへ移った。

 「じつは正月早々に,親友が死にまして,その葬儀の写真に,競馬場で写した彼の笑い顔を使いました。それが競馬場にいた彼だと知ってるのは,わたしだけなんですがね。そんなことがありまして,それで自分も,競馬場で写真をと思いついたわけなんですよ」アハハ,フフフ,とオズさんは笑った。

 「なるほど。なるほどです。そのシャッターを切らせてもらって,光栄」と私も,アハハ,フフフと笑った。しばらく黙って,私もオズさんも,馬場を眺めた。「今日,おもしろいものを読みましたよ。あなたも同じ新聞だし,読まれたかな?」

 そう言うオズさんも,私も,「日刊競馬」を手にしているのだ。「これです」オズさんが指さしたのは私のコラムで,私はドキッとした。「読みました」と私は言った。「わたしもね,そのテレビを見ていて,同じように感じたので,それが書いてあったので,うれしくなりましたね」とオズさんが言い,「ぼくも読んで,うなずきました」と言った私の顔が少し赤くなった。

 『テレビ朝日の「報道ステーション」を見ていたら,衆院予算委員会のニュースに続いて,船橋競馬のレースが映ったのでびっくりした。3連単で1911万円馬券が出たというのである。そこで古館キャスターや解説の一色さんや河野アナがコメントを交わすわけだが,「人間の欲望というものは」とかなんとか,インテリ同士の典型的なやりとりになり,「なんだかつまらないことを言ってるなあ」と私は画面へ声をかけたくなった。

 しかし3人とも,競馬を好きになったことはなさそうだし,競馬場やウインズへ行く人の気持ちもわからないだろうし,電話投票で馬券を買う孤独も喜びも知らないだろうし,仕方のないやりとりかもしれない。そこで小心で用心深い私は考えたのである。よくおれも,あんまり知らない世界のことを,平気ですらすら語っていることがあるよなあ。これからはなるべく,そういうの,やめておこうと思ったのだった』というコラムである。

 私はコラムを書いた本人だというのを言わないようにしようと決めたとき,第3Rのゲートが開いた。すべての叫びをそこにこめる,といったオズさんの右の拳の小刻みな激しい動きだ。「1番人気から2番人気へ馬単を買ったのに,それが2290円もついてる。ラッキーカムカム」笑いのとまらないオズさんに私は握手を求めた。

 2月7日の入場者3万3478人。そのうちのひとりが,国分寺のオズさんである。
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