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第206便 そこらへんの奴ら

2012.02.13
 去年の秋だったなあ、塗装工のタケちゃんと知り合いになったのは。
 東京競馬場のメモリアル60スタンドの地下、立ち食いでラーメンを食べていたら、近くでやはりラーメンを食べていた若者と顔が合い、どっちもおたがいを、どこかで会っているよなあという目つきになった。

 それで、「どこで会ったんだっけ?」と私から声をかけ、声をかけてみると思いだせた。2年ほど前の私の家のリフォーム工事のとき、塗装屋の親方といっしょに来て、何日間かの作業中、10時と3時のお茶の時間に、私も世間話の仲間になったのだ。

 「おれ、おぼえてますよ」
 若者が言い、それが24歳のタケちゃんで、話をしていると、私の家の近くの、毎日のように私が散歩中に通り抜ける市営アパートに住んでいるのだった。
 「うちに遊びに来いや」
 「行っていいすか」
 「いいよ」
 「うちにも来てくださいよ」
 「そんなこと言うと、おれ、行くよ」
 そう言って私は笑い、マークシートにタケちゃんの住所を書いた。

 私はイタズラが好きなのである。イタズラをするために生まれてきたのだ、と思いたいのである。次の土曜日の夜8時ごろ、タケちゃんの家と思える窓に明かりが点いていたので、ピンポーン、と玄関の音を鳴らすイタズラをした。
 私を見て、タケちゃんはうれしそうな顔になった。私のイタズラを喜んでくれたのである。それが私はうれしいのだ。

 タケちゃんの家で私はビールをのんだ。私は思いがけない展開が好きなのである。
 「ここは、おじさんの家なんですよ。事情があって、当分は空き家で、留守番がわりに住んでいいよってわけで、市営アパートでルールが面倒だから、おれ、逃亡犯みたいな気持ちで住んでるんですよ」
 「競馬を知ったのは?」
 「おれ、船橋競馬場の近くで育って、オトナになったら馬券を買いたいって思ってた」
 とタケちゃんが笑ったとき、ピンポーン、と玄関が鳴った。

 すぐに玄関だけで老人は帰った。タケちゃんの手にメモ用紙と千円札がある。
 「あと3年で90歳というジイさんが、となりでひとり暮らししてる。家のなかにオグリキャップの写真がいっぱい貼ってあるから、おれ、オグリ爺さんと言ってるんだ。
 若いときから競馬狂で、今は、毎週の土曜日に、明日のメーンの馬連を5点、200円ずつを頼みに来て、おれがウインズヘ行くから頼まれるわけ。けっこう穴をアテるからね。
 土曜日もウインズヘ行けるよって言うと、金曜の晩も、千円、土曜のメーンを頼みにくる。
 今年の新潟の朱鷺ステークスで、オセアニアボスとメイビリーヴが穴を出して1万6千なんぼ。
 オグリ爺さん、当てた。おれに1万円、くれて、おれ、もったいなくて、その1万円札、財布にしまってある」
 とタケちゃんは財布を出してきて、その1万円札を私に見せた。
 オセアニアボスとメイビリーヴを、スラスラッと言ったタケちゃんに感心し、その1万円札には感動した。

 2012年になった。1月7日のこと、渋谷のホテルでの故人追悼会のあと、ひとりで恵比寿のバーヘ寄ると、或る馬主の秘書のような美人がいて、そこで馬主である社長と待ち合わせをしているということだった。
 カウンターで並んでしまった美人が、
 「わたしの父は83歳になるのに、馬券だけが楽しみで、それが生き甲斐」
 という話をしたものだから、私もタケちゃんとオグリ爺さんの話をし、
 「うちの父とオグリ爺さんとタケちゃんに乾杯」
 と美人もうれしそうだった。

 社長が来た。親しくはないが、おたがい、顔は知っている。私は常識的な新年の挨拶をしたのだが、なにやらキゲンが悪いのか、ほとんど私を無視するようにして社長はトイレへ行った。
 「おれが嫌なのかもしれない。退散したほうがいいかもね。帰ろう」
 私が言うと、
 「ごめんなさい。よくあるの。帰るなんてしないで。ご面倒でも、少しおつきあいして」
 美人が手を合わせるのだ。 

 トイレから戻って社長はひとしきり、店のマスターやバーテンから新年の挨拶を受けたあと、
 「あんたが書いたものを読んだ」
 ワイングラスを手に、私を見ずに言った。
 黙るしかないと思って、私は黙る。
 「競馬ファンの、そこらへんの奴らの、馬券が当たったとかハズれたとか、そんな話、わたしには何のタシにもならなかったな」
 と言う社長の表情が少し険しくなっているのを私は盗み見た。
 私と社長にはさまれた美人は心配そうな顔で宙を見ている。

 「何かのタシにしてほしくて書いてるわけじゃありませんから」
 なるべくおだやかに私が言うと、
 「それじゃ、どんな意味があって書いてるのかね。何のタシにもならないんだったら、意味がないじゃないか」 
 と社長が突っこんできた。
 「困ったなぁ」
 と私は言ったわけではなく、そう思って黙った。
 「そうか。あんたも、そこらへんの奴らというわけか」
 社長の顔はほとんど喧嘩を売る顔になっている。
 「そのとおり。おれ、そこらへんの奴らにきまってるじゃないですか」
 私は腰をあげ、「お先に」と美人に言い、出入口へ近づいて支払いをし、外に出た。

 こんな時間とめぐりあうのも、競馬が好きになったおかげだなあ。その社長が持っていた有名な馬の名を言いながら、ネオンの街を歩いた。
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