JBIS-サーチ

国内最大級の競馬情報データベース

第237便 長岡で、出雲崎で

2014.09.17
 6月の末のこと、ビッグレッドファーム主催の牧場ツアーに行き、新潟県長岡市与板(2006年までは三島郡与板町)に住む医師の小林徹さんと、参加者歓迎昼食会の、草の上でのビールをのんだ。小林さんとは新潟競馬場でも、夜の古町でも会っている競馬友だちである。
 「昨夜ね、明日は小林さんと会うと言ったらかみさんが、長岡の花火の話をはじめたんだ。もう三十年前の話なんだけど、浦佐(今は南魚沼市)にかみさんの親友がいて誘われて、八十歳に近い父親を車に乗せて、越後路の旅をしたわけよ。
 そのとき、ちょうど長岡の花火にぶつかって、橋の上から見たというんだけど、その日の昼、花火は嫌だと言っていた父親が夕方に、よしっ、見てやるかって気が変わって言ったひとことが、かみさんの忘れられない思い出になってるみたい」
 と私が言った。
 私の義父は太平洋戦争末期の、1945(昭和20)年の硫黄島での死闘からの、数少ない生き残り兵のひとりである。花火は悪夢をよみがえらせると拒んでいたのだが、「よしっ、見てやるか」のひとことに変わったのだ。
 「三十年前とはね、長岡の花火もまるで変わった。いらっしゃいよ」
 と小林さんが誘ってくれて、それでかみさんも父親との思い出がふくらんだのか、長岡の花火を見たくなった。
 2014年8月2日の朝、東京駅で上越新幹線「とき」に乗り長岡へ。日差し照りつけ、長岡駅前のアスファルトが焼けていた。
 「暑いですね。すぐに冷えると思いますから」
 出雲崎車庫行きのバスの運転手が汗をふきながら、前方の席にいた私とかみさんに笑いかけた。
 やさしい男なのだ、と私は思う。五十半ばに見える髪のうすい運転手の名は古川さん。出雲崎までの一時間、ハンドルを握る古川さん。長岡で働く男、と私は意識をしてうしろ姿を見た。
 前方にまぶしく海がひろがる出雲崎の民宿「まるこ」に着く。すぐ脇が良寛堂(良寛生誕地橘屋跡)だ。
 良寛堂には、母の里である佐渡島を見つめる良寛像がある。そうだよ、今日は新潟競馬の初日。メーンは佐渡S。当てねばなるまい、と私は良寛像を撫ぜ、そこからケイタイで新潟競馬場にいる友だちに、1番人気クイーンオリーブから人気順に4点の馬単と、今朝の「とき」の座席、14号車12番からの馬連⑫-⑭の馬券を頼んだ。
 「どうして、まるこ、なの?」
 「姓が小林で、丸のなかに小。商標ね。屋号はふかうら。ご先祖さんが青森の深浦で」
 と宿のおかみさんが教えてくれた。
 佐渡Sの1着は16頭立て15番人気のウイングドウィール。単勝1万5,030円。馬単が19万1,540円。
 「なんだ、長岡より先に新潟競馬ででっかい花火があがっちまった」
 とかみさんに言ったが通じない。「とき」の番号⑫-⑭が2着と3着だったのには笑った。

 美鈴夫人が運転の車で小林さんが宿に来てくれて、与板のとなりの和島にある「良寛の里美術館」と「菊盛記念美術館」へ行く。どちらも入場者は、私たち4人のみ。
 菊盛記念美術館には柳原義達、舟越保武、佐藤忠良、朝倉響子、木内克といったすぐれた彫刻家の作品があって感激。受付のおばさんに感激を伝えてみると、
 「あまり人が来なくて、もったいない、と言ってくれる人がけっこう多いんです」
 とうれしそうな返事。このおばさん、和島の美術館の受付の仕事、と私は意識をした。
 与板の小林医院に寄った。小林さんの母のハルさんは88歳。しっかりしていて、はっきりしていて、産婦人科医だった亡夫の肖像画を
 「いつまでも尊敬の念が消えない主人です」
 と私たち夫婦に見せてくれた。
 タクシーで長岡市街の小料理「魚吉」へ行った。カウンターをはさんで、ヒゲづらのおやじが鮎を焼いている。
 「このおやじさん、昭和45年に長岡商業が夏の甲子園に出たときのキャッチャーだったの。当時はネット裏からのカメラばかりだったから、キャッチャーはケツばかりが画面に映って」
 と小林さんが笑い、
 「校歌は歌った?」
 私が聞くと、
 「1回戦で負けたの、岡山東に」
 と顔をあげずにおやじは小声で言った。ああ、長岡で包丁を握るおやじさん、と私は意識した。
 かみさんと美鈴夫人は、のんべえの亭主を持ったどおしの共感からか、初対面なのに話が盛りあがっている。

 信濃川河川敷へと歩いた。長岡まつり大花火大会。50万人の人出という。右岸マス席、ブロック42-3035に着くと、小林医院で働く看護師の熊木千里さんの家族がいた。
 埼玉県朝霞市で二児の母となった熊木さんは、ご主人を突然のように病魔に奪われ、故郷の与板に帰って小林医院で働いた。それから二十年、小林さんの片腕だ、と私は聞いている。
 与板で働く、看護師の熊木さん、と意識をして私は挨拶をした。
 フェニックス花火に歓声が湧く。凄い。かみさんは父親との昔の花火を思いだしているだろう。
 帰り、出雲崎へタクシー。運転手の名は高橋さん。ハタチ前後の5年ほど、東京で働いたことがあるという。28歳と26歳の娘がいるが、結婚しそうにないと心配をする、故郷の長岡のタクシーで働く高橋さん、と私は意識した。
 翌日、長岡駅の近くまで仕入れの用事で行くから、バスでなくわたしの車に乗ってきな、と宿のおかみさんが言ってくれた。
 「息子が8歳のとき、C型肝炎で主人が死んじゃったの。働くしかないでしょう。時代が変わって、家族で民宿に泊まろうなんてハヤらないから大変だけど、ま、がんばるさ。
 今、息子は大学一年。埼玉にいる。こっちへ帰ってくると言ってるの」
 と「まるこ」のおかみの語りを聞きながら、出雲崎で働くおかみさんと私は意識をして、彼女の元気がうれしかった。
 花火を見た。そして長岡で、出雲崎で、働く人を見た。おれの生きている時間だと思い、小林さんと知りあえた競馬のおかげだと私は思った。
トップへ