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第238便 ヒーラ!ヒーラ!

2014.10.15
 六本木にある国立新美術館の「オルセー美術館展」へ行き、65.2×81.2センチの油彩、エドガー・ドガの「競馬場、一台の馬車とアマチュア騎手たち」の前に立ちながら、50日ほど前に渋谷のミュージアムでラウル・デュフイの「ドーヴィルの競馬場」を見ていたときのことを思いだした。
 どちらの美術展も人気があって会場は混雑しているのに、競馬場を描いた絵には人が足を止めず、まるで私のために展示されているようなのだ。
 私の気分は少し笑いそうである。そうか、こうしてかなりの人が絵を見に来るのだが、競馬に愛され、競馬を愛してしまった人は、そんなにはいないってことなんだよな、と私は考えるのだ。
 もっとも競馬を愛し愛された人だって、絵の競馬場なんか意味ないよ、と言うかもしれない。私にとっては競馬は人生のすばらしい景色なので、そんなことはめったに口にしないけれど、たまには言いたくもなってそれを言葉にすると、「キザだなあ」とたいていは相手にされない。
 「競馬は人生のすばらしい景色です」
 と私は心でドガの競馬場の絵に言った。

 美術館を出て六本木の裏通りを抜け、交差点に立って3分間ぐらいは周囲を眺める。そこも私の絵なのだ。
 21歳のころに私は、1958(昭和33)年のことだが、六本木交差点から芋洗坂を下り、途中で右の小路の先のアパートに1年ほど住んだことがあるのだ。まだ交差点に高速道路の屋根もなく、雑草のひろがる幅広い歩道があり、暑い夜など、そこにあった「マンドリンを弾く少女」の像の横でタバコを吸って涼んでいた。夜の六本木は暗かったよ。
 たしかあのアパート、今は地名変更したろうが、そのころは北日ヶ窪町28番地だったかな。
 私は赤坂のナイトクラブで働いていて、そこで働いていた女と仲よくしていたら、冬の晩にいきなり、おれの女に手を出したなって、凄味のある顔の男に呼びだされ、おれのアパートの近くの寺の境内で、しこたま殴られた。
 いろんなことがあるよなあ、人生は。2014年9月6日、「六本木交差点」という絵を私は、3分間ぐらいで描き、女のことで唇から血なんか流していたおれも、長いこと生きて、こんなじいさんになっちまったよと、自分に言いながら交差点を渡った。

 地下鉄を銀座でのりかえ、新橋に出た。ウインズ汐留へ行くのだ。
 「父の1年忌の寺で考えたんですけど、ぼくがいちど、ウインズ汐留へ行って、田中勝春の単勝を買うのが、父へのいちばんの供養ではないかって。
 だって父は晩年、ほとんどの週末、ひとりでウインズ汐留にいたわけですよ。喜びも悲しみもウインズ汐留です。
 9月6日に行こうと思います。父の誕生日なものですから。もし許されるならば、そのあと、吉川さんとビールをのめたら、父はめちゃくちゃうれしいと思うのですが。あつかましいお願いと知りつつ」、
 と五反田に住む今井直己さんから手紙をもらったのは8月中旬だ。直己さんは50歳、私立高校の国語教師である。
 直己さんの父の達治氏は、30代のころの私が薬品問屋勤務時代、大手製薬会社員だった。2013年6月に78歳で死去するまで、私とは40年におよぶ競馬友だちで、新潟へも福島へもいっしょに行ったことがある。
 いつのころからか、
 「ぼくが取れる穴馬券はね、人気のない馬に乗る田中勝春を馬券に絡めたときが多いんだ」
 と言いだして達治さんは、晩年は田中勝春の単複を買って楽しんでいた。
 2013年5月18日のこと、そのとき入院中の達治さんは私に馬券を頼んできたのだが、東京11RメイSの、田中勝春騎乗のタムロスカイの単複各1,000円、という電話である。
 なんとタムロスカイが勝ち、18頭立て16番人気で単勝が1万9,820円、複勝が2,380円。
 「それが、わが友、今井達治氏の、人生最後に買った馬券でした」
 と私は1年忌の会食の席でスピーチしたのだが、そこにも競馬を知っている人はいなかったようで、強く反応してくれたのは息子の直己さんぐらいだった。

 新橋駅の烏森口を出てすぐ、
 「若い女のコと楽しい酒をのみませんか」
 と寄ってきた客引き男に、
 「のみたいよ。馬券が当たったらね」
 と私は敬礼をした。
 ウインズ汐留に直己さんがいた。直己さんはダービーと有馬記念くらいしか馬券を買わない。
 「父の供養だから田中勝春の単複だけを買います。ここに着いたら7Rで、スイートルイーズというのを買ったんだけど3着でした。複勝が370円で、2,000円使って、1,700円のプラスですね。
 8Rと9Rには田中勝春が出ない。それで10Rのヒーラと、11Rのスイートサルサと、12Rのアビスコの単複を1,000円ずつ買いました」
 とその馬券を見ながら直己さんが私に言った。
 「3頭ともミャクがありそう」
 競馬新聞のシルシを確かめながら私が言った。
 「父は母に、このウインズへ出かけるとき、いつも、いざ宮殿に、と声をかけるんですよね。
 ウインズ汐留の建物が宮殿ふうですものね。ぼくも最初に見たとき、父の言っている意味がわかりました」
 そう言って直己さんは少し笑い、
 「ほとんどの人は宮殿からの帰り道、なんだか疲れた顔つきで、なんだかさびしく背中を曲げて、疲れた足を引きずりながら、新橋駅へ歩いていくのです」
 と私も少し笑った。
 新潟10Rは驀進特別、芝1000㍍の直線レースで18頭立て。外枠有利のレースで勝春ヒーラは大外枠。6番人気である。
 「ヒーラ」
 ゲートがあいてレースへ呟いた直己さんは、そのあと、息をつめたように画面を見あげていたが、やがてわれを忘れたように、 「ヒーラ!ヒーラ!」と連呼し、ヒーラが1着でゴールすると、意識を失ったように宙を見つめていた。
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