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第240便 深浦、恩納村、市青木

2014.12.11
 「体調が悪いと自分の神経とつきあっているだけになりますが、そうでない日は、ふりかえって、わが青春、などと思いめぐらしています。
 先日、ふと、サフランの順吉くんの顔を思いだしました。すると、わたしと順吉くんと良さんが、新幹線でビールをのみ、どんな冗談を言いあったのか、大笑いをしているシーンになりました。
 順吉くんが沖縄へ帰ることになり、帰る前に京都競馬場へ行ってみたいと言いだし、送別旅行をしたのでした。
 計算してみると、もう38年前の話です。どうしてはっきりと思いだしたのか不思議です。
 わが青春とか言いましたが、あのころ、わたしと良さんは40歳で、順吉くんは30歳かな。青春とは言えないけど、言わせてもらいましょう。
 順吉くんに会いたいなあ。良さんに会いたいなあ。そう思うと、会っているような気持ちになるのも不思議です」
 と青森県西津軽郡に住むムラセさんから手紙が来たのは2014年6月だ。この手紙を私はコピーして、沖縄県国頭郡に住む順吉くんに送った。

 ムラセさんの手紙に出てくる「サフラン」は、JR神田駅の近くにあったバーで、順吉くんはそこのバーテン。医薬品業界紙記者のムラセさんと、薬品問屋勤務の私は、サフランの常連客だった。
 この3人で、カブラヤオーとかテスコカビーの時代の競馬場へ、いつもツルんで行っていたのである。
 ムラセさんの手紙を読んで順吉くんが送ってきたのは、雑誌「優駿」1976年12月号の74頁と75頁のコピーで、第24回京都新聞杯でトウショウボーイが1着、2着がクライムカイザーを伝える記事だった。
 「今となっては、どうして京都競馬場に行ってみたいなんて言ったのかわかりませんが、送別旅行につきあってくれたなんて夢のようなことです」
 と順吉くんは書いている。
 順吉くんは父親が急死して、農業のあとつぎのために沖縄へ帰り、ムラセさんは50代半ばだったか故郷の地方新聞社へ転職をした。

 2014年10月のはじめ、青森県の川部駅から五能線に乗り、日本海を飽きるほど眺め、深浦駅で下車した。ふた月前に死んでしまったムラセさんの葬儀に行かれず、遅ればせながらの墓参なのだった。
 西津軽から帰って3日して、私は沖縄へ飛んだ。夏にムラセさんの死を順吉くんに知らせたとき、順吉くんは膵臓に変なものができてるらしくて入院していて、娘さんが返信をしてきた。そして9月半ば、「父さんが会いたいと何度も言うのです」という手紙も来ていた。
 私は那覇市の病院に67歳になった順吉くんを見舞ったが、会話ができる状況ではなかった。
 目の前に海がひろがる恩納村のホテルで、持参してきた、順吉くんからの、「優駿」のコピー記事を読んだ。
 「自己のスピード、自分のペースで走れば絶対的に強い馬、それがトウショウボーイだ。まして鞍上が福永洋一。ニホンピロムーテーでのあの判断力、熟知したホームコース。最早菊の大輪はトウショウボーイの頭上に咲いたも同然といえよう」
 その記事の筆者は(近畿放送・飛鳥井雅和)だ。
 忘れもしない、その年の菊花賞はグリーングラスが勝ち、2着テンポイント、3着トウショウボーイだったと、
 「おれ、沖縄の恩納村で思いだしてる」
 とひとりごとを言うみたいにして海を見ていた。

 10月20日の昼、徳島空港に着くとケイタイが鳴り、埼玉県上尾市に住む新保武さんの死が伝わってきた。彼とは30年のつきあい。私と同年である。40分の1口馬主でジェンティルドンナと出会い、うれしくてうれしくて元気な晩年だったのに。
 去年に続いて私の話を聞いてくれる会が、南あわじ市伊毘港にある旅館「海峡」でひらかれる。
 風呂に入って海原と大鳴門橋を眺めるとき、まだ客は私ひとりだけのようで、「ひとり占め」という言葉が浮かび、でまかせの作詞作曲で、「金の苦労はたくさんあった、女の苦労も少しはしたさ、いつのまにやらじいさんで、旅に出たのさ淡路島」と歌い、調子にのって2番、「泊まる宿屋は海峡で、風呂場にひとり腰かけて、夕陽で赤い伊毘港の、ああ海峡ひとり占め」と歌いあげた。
 歯科医の奥井卓さん、佐藤圭さん、中村裕要さん。歯科材料商の清水保晴さん、銀行員の細川将弘さん、レストラン経営の宮崎尚成さん。歯科技工士の柿木春行さん、松野一行さん。みんな競馬を愛していて、私の競馬ばなしを熱心に聞いてくれるのだ。
 あとは宴会である。どうして競馬と出会ったか?カツタイコーだ。タマモクロスだ。オグリキャップだ。シルキードルチェだとか。競馬にはまったきっかけの馬の話も盛りあがる。
 「わたしの父親の弟がアオキ競馬の騎手だったんです。それで父親は無類の競馬好きでね。
 淡路島に競馬場があったんですね。アオキ競馬場と言う人も、淡路競馬場と言う人もいる」
 と言ったのは62歳の佐藤圭さんだ。

 大歩危峡で船下りをしたり、奥祖谷のかずら橋を渡ったりして3泊の旅を終え、小さな函におさまってしまった新保武さんに手をあわせに行ったあと、気になっていた淡路島の競馬場のことを調べた。たしか新冠のアラキファームの荒木正博さんが、うちの先祖は淡路だよと言ってたなとか、調教師だった稲葉幸夫さんが、うちの先祖は淡路の稲田藩騒動で明治政府から、北海道の開拓を命じられて静内に行かされたのさと言ってたなとか思いだしながらだ。
 先ず1929年に淡路競馬場が三原郡市村青木に開設。わずか1年で閉場したが、1930年の園田競馬場の開設につながった。そして1947年、三原郡市村青木(現在の南あわじ市市青木)に淡路競馬場が再度開設されたが、運営がむずかしくて、1949年には閉場している。
 しかし淡路競馬場が、園田競馬と姫路競馬の前身だと言えそうだ。
 そうした歴史を読みながら、私の競馬ばなしを聞いてくれる淡路島の競馬友だちの集まりに名前をつけるとしたら、「市青木の会」だなあとか思いが浮かぶと、旅館「海峡」での宴会がよみがえってきて、幸せな気分になった。
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