烏森発牧場行き
第253便 ハラケンの馬
2016.01.12
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「三河湾の蒲郡にて出航の準備を始めて一週間が経ちました。四日前、作業中に不注意から額をザックリと切って、二十針も縫いました。久しぶりに自分の体からほとばしる鮮血を見ました。止めどなく出る血に見とれてしまいました。長い陸ボケの代償なのだと思いました。海へ出る前の戒めだと感じました。
最近、洞窟オジさん、という本を読みました。中学一年生で家出をして、足尾銅山の洞窟で暮らし始め、何十年と動物や虫や草を食べて生き抜いた実在の人物の話です。
やがて下界におりてきて、少しずつ人と触れあいながら社会に折りあいつつも、一人で生きていく本能が呼びにくる。
口述なのでしょうが、人間の本当の声が聞こえてきました。
笑わされ、泣かされ、同感させられ、生きていることの喜びと悲しみを少しだけ、分けてもらった気がしました。
海の上で、陸に上がって、僕だけが感じたこと、見たこと、聞こえたこと、臭ったこと、触れたことを、書きとめてこようと思っています。
今、海に出たくてたまりません。唯一、僕にささやかな矜持を与えてくれた場所です。
明日十一月四日に出港です。また、たんぼでお会いする日を楽しみに」
という便りを友だちのハラケンからもらった。本名、原健。はらたけし。
ハラケンは1963年生まれ。福島県喜多方市出身。81年にサッカー日本ユース代表選出。翌年、筑波大学に入学し蹴球部に所属するも挫折。87年、ヨットのクルー募集に応募して合格。いくつかのヨットレースに参戦。ヨットを所有するオーナーに雇われ、ヨットの管理、整備、レース、運行を手掛けるのが職業である。
「たんぼでお会いする日を」の「たんぼ」は、港区新橋の「酒場たんぼ」だ。そこで二た月に一回、雑誌編集者、写真家、女子飛びこみ選手、私、ハラケンの5人が集まって酔っぱらい、歌う。編集者と写真家と私は四十年近いつきあい。そこへ二人が参加して、「たんぼの会」となった。
十一月十一日付で、またハラケンから便りがきた。
「吉川さん。サケダイスキが死にました。いや、正確には今年の二月二十三日に、すでに秋田県の乗馬クラブで亡くなっていたことが昨日わかりました。
ムシの知らせというやつでしょうか、久しぶりにそのクラブへメールを入れたところ、返信が来たのでした。何故かつい最近、僕は彼が写っている写真という写真をパソコンに取り込んだばかりだったのです。
二〇〇七年に5歳だったから、まだ13歳ぐらいだったと思います。エクセラ牧場の藤原さんによれば、原因不明の食欲減退で、まったく食べなくなったそうで、獣医もお手上げだったとか。僕はそれを聞いて、サケダイスキは自死したのではないかと感じました。
逃げることが出来なくなり、他馬の尻を見て走りながら引退し、運よく乗馬として生き延びたものの、心の行き場は無くなっていたのかも知れません。
最期にサケダイスキは逃げて見せたのではないかな。僕はそんな牡のような気がします。
今ごろ、サケダイスキの魂は、二風谷ファームの牧草を揺らす風に溶けて漂っていることでしょう。
これからの航海をサケダイスキとともに帆走ってゆきたいと思います。
今、寄港している小笠原の父島にて、一生に一回の今日の夕焼けを眺めております。
十四日にシドニーへ向けて出航します。たんぼでお会いする日を楽しみに」
読んで私はハラケンとのつきあいを考えた。向島のバーでそこのマスターが、「こんなものを書いておれに読ます変な奴がいる」と、三つの短篇を私に見せた。「サケダイスキの唄」、「サケダイスキの旅」、「サケダイスキの夢」という文章である。
それを読んで私は作者と会いたくなり、住所を聞いて手紙を書き、浅草で会った。
原健という体の大きな男は、アメリカ杯とかウィットブレッド世界一周レースとかにクルーで参加して、ヨットで食っているのだった。
生きるためにのんでいるのか、のむために生きているのか、酒に溺れ、酒に愛されてしまった奴だったのは、三つの文章から私は知っている。酒の席で出会った女との5年の結婚生活。そして別れて5年が過ぎて女からの再婚の知らせを受け、酒で女を傷つけてしまった人生を見つめたい奴だというのも私は文章で知っていた。
44歳になった原健は断酒を願い、競馬に気を向け、大井、川崎、浦和、船橋へと出かけて、ひたすらに走る馬たちを眺めた。ふと、初めて出かけた府中の競馬場で、パドックを歩くサケダイスキという馬に目を止める。
父オペラハウス、母パーティプラザ、母の父トウショウボーイの牡。いったいサケダイスキという名前はどうしたことか。
4歳500万下、芝2000㍍。単勝18.4倍のサケダイスキの単勝を原健は1万円買った。
大野拓弥騎乗のサケダイスキは身のほど知らずのように逃げまくり、原健はわめき、2着馬にクヒ差だけ先着した。
原健とサケダイスキのドラマが始まった。ジャガーメイルやスクリーンヒーローとオクトーバーSを走り、モンテクリスエスが勝ったダイヤモンドSを最後に中央から地方へと移った。大井、水沢、盛岡、金沢で走るサケダイスキに会いに行って単勝1万円を買い続けた原健は、引退後に引きとられた秋田県大仙市の乗馬クラブ「エクセラ」へも会いに行った。
「乗ってみな」
と場長が言い、原健はサケダイスキに乗るのである。
「もう逃げるのは終わりだ、おたがい」とか心でサケダイスキに言いながら原健は、動きはじめたサケダイスキの背中で、音のない時間を意識したのを、「サケダイスキの夢」という文章で書いている。
もういちど私は、ハラケンからの手紙を読んだ。「サケダイスキは自死したのではないか」に心がふるえ、私は泣きそうになって強く息を吐いた。
最近、洞窟オジさん、という本を読みました。中学一年生で家出をして、足尾銅山の洞窟で暮らし始め、何十年と動物や虫や草を食べて生き抜いた実在の人物の話です。
やがて下界におりてきて、少しずつ人と触れあいながら社会に折りあいつつも、一人で生きていく本能が呼びにくる。
口述なのでしょうが、人間の本当の声が聞こえてきました。
笑わされ、泣かされ、同感させられ、生きていることの喜びと悲しみを少しだけ、分けてもらった気がしました。
海の上で、陸に上がって、僕だけが感じたこと、見たこと、聞こえたこと、臭ったこと、触れたことを、書きとめてこようと思っています。
今、海に出たくてたまりません。唯一、僕にささやかな矜持を与えてくれた場所です。
明日十一月四日に出港です。また、たんぼでお会いする日を楽しみに」
という便りを友だちのハラケンからもらった。本名、原健。はらたけし。
ハラケンは1963年生まれ。福島県喜多方市出身。81年にサッカー日本ユース代表選出。翌年、筑波大学に入学し蹴球部に所属するも挫折。87年、ヨットのクルー募集に応募して合格。いくつかのヨットレースに参戦。ヨットを所有するオーナーに雇われ、ヨットの管理、整備、レース、運行を手掛けるのが職業である。
「たんぼでお会いする日を」の「たんぼ」は、港区新橋の「酒場たんぼ」だ。そこで二た月に一回、雑誌編集者、写真家、女子飛びこみ選手、私、ハラケンの5人が集まって酔っぱらい、歌う。編集者と写真家と私は四十年近いつきあい。そこへ二人が参加して、「たんぼの会」となった。
十一月十一日付で、またハラケンから便りがきた。
「吉川さん。サケダイスキが死にました。いや、正確には今年の二月二十三日に、すでに秋田県の乗馬クラブで亡くなっていたことが昨日わかりました。
ムシの知らせというやつでしょうか、久しぶりにそのクラブへメールを入れたところ、返信が来たのでした。何故かつい最近、僕は彼が写っている写真という写真をパソコンに取り込んだばかりだったのです。
二〇〇七年に5歳だったから、まだ13歳ぐらいだったと思います。エクセラ牧場の藤原さんによれば、原因不明の食欲減退で、まったく食べなくなったそうで、獣医もお手上げだったとか。僕はそれを聞いて、サケダイスキは自死したのではないかと感じました。
逃げることが出来なくなり、他馬の尻を見て走りながら引退し、運よく乗馬として生き延びたものの、心の行き場は無くなっていたのかも知れません。
最期にサケダイスキは逃げて見せたのではないかな。僕はそんな牡のような気がします。
今ごろ、サケダイスキの魂は、二風谷ファームの牧草を揺らす風に溶けて漂っていることでしょう。
これからの航海をサケダイスキとともに帆走ってゆきたいと思います。
今、寄港している小笠原の父島にて、一生に一回の今日の夕焼けを眺めております。
十四日にシドニーへ向けて出航します。たんぼでお会いする日を楽しみに」
読んで私はハラケンとのつきあいを考えた。向島のバーでそこのマスターが、「こんなものを書いておれに読ます変な奴がいる」と、三つの短篇を私に見せた。「サケダイスキの唄」、「サケダイスキの旅」、「サケダイスキの夢」という文章である。
それを読んで私は作者と会いたくなり、住所を聞いて手紙を書き、浅草で会った。
原健という体の大きな男は、アメリカ杯とかウィットブレッド世界一周レースとかにクルーで参加して、ヨットで食っているのだった。
生きるためにのんでいるのか、のむために生きているのか、酒に溺れ、酒に愛されてしまった奴だったのは、三つの文章から私は知っている。酒の席で出会った女との5年の結婚生活。そして別れて5年が過ぎて女からの再婚の知らせを受け、酒で女を傷つけてしまった人生を見つめたい奴だというのも私は文章で知っていた。
44歳になった原健は断酒を願い、競馬に気を向け、大井、川崎、浦和、船橋へと出かけて、ひたすらに走る馬たちを眺めた。ふと、初めて出かけた府中の競馬場で、パドックを歩くサケダイスキという馬に目を止める。
父オペラハウス、母パーティプラザ、母の父トウショウボーイの牡。いったいサケダイスキという名前はどうしたことか。
4歳500万下、芝2000㍍。単勝18.4倍のサケダイスキの単勝を原健は1万円買った。
大野拓弥騎乗のサケダイスキは身のほど知らずのように逃げまくり、原健はわめき、2着馬にクヒ差だけ先着した。
原健とサケダイスキのドラマが始まった。ジャガーメイルやスクリーンヒーローとオクトーバーSを走り、モンテクリスエスが勝ったダイヤモンドSを最後に中央から地方へと移った。大井、水沢、盛岡、金沢で走るサケダイスキに会いに行って単勝1万円を買い続けた原健は、引退後に引きとられた秋田県大仙市の乗馬クラブ「エクセラ」へも会いに行った。
「乗ってみな」
と場長が言い、原健はサケダイスキに乗るのである。
「もう逃げるのは終わりだ、おたがい」とか心でサケダイスキに言いながら原健は、動きはじめたサケダイスキの背中で、音のない時間を意識したのを、「サケダイスキの夢」という文章で書いている。
もういちど私は、ハラケンからの手紙を読んだ。「サケダイスキは自死したのではないか」に心がふるえ、私は泣きそうになって強く息を吐いた。