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第265便 花束

2017.01.05
 ジャパンCの前日、「明日の東京は雨」と確実なようにテレビの天気予報が言い、「まいったなあ」と私はつぶやいた。私と知りあったのが幸か不幸か、若い内科医、ベテラン看護師(女性)、中年レントゲン技師の三人が、ジャパンCの日に初めて競馬場へ行くことになったので、雨じゃ気の毒、可哀そうと、私は心配なのだ。
 ティッシュペーパーをまるめてテルテル坊主を作り、それしか仕方ないと軒先にぶらさげて寝た。すると、どうだろう、ジャパンCの日の朝、空はネズミ色だが、なんとか雨にならないでいる。
 午前中は競馬場デビューの三人組とパドックの近くで過ごし、昼に私はメモリアルスタンド7階のゲストルーム「けやき」へ行った。馬事文化賞をいただいたおかげで、ジャパンCの日にかみさんもいっしょに招待されるのである。
 指定されたテーブルへ行くと、私とかみさんは、「競馬の人類学」で馬事文化賞受賞の長島信弘さん(一橋大学名誉教授)とハードウェアを仕事にする長島慎人さんと同席だった。
 「凄いなあ」
 全レースの馬券と取り組む私と同年令の長島信弘さんのエネルギーに感心して私が言うと、
 「競馬場にくれば、池に飛びこむしかない」
 と長島信弘さんの笑顔が返ってきた。「池に飛びこむ」で私の頭が「古池や」につながり、
 「松尾芭蕉も競馬場があったら寄りましたよ」
 と私はつい、余分なことを言ってしまった。
 近くのテーブルに馬事文化賞受賞の映画「雪に願うこと」を監督した根岸吉太郎さんがいて、そこに第41期囲碁名人になったばっかりの高尾紳路九段もいた。
 井山裕太七冠と3勝3敗での決戦直前に、高尾九段が共有馬主クラブで持つスモークフリーが横山典弘騎乗で勝ったので、
 「おお、スモークフリー(視界良好)!」
 と高尾九段と握手しながら言ってしまった。
 ジャパンCが近づき、それまで雨がおどかすように降りかかってくるのだけれど、しっかり降るということはしないで、どうか頼むよ、せっかくやってきた人たちを困らせないでくれよ、という願いは空に届いているようだった。
 ジャパンCのゲートを17頭がとび出し、1番人気、単勝3.8倍のキタサンブラックが武豊の手綱で快調に逃げ、そのまま先頭でゴール板を通過した。
 「今日は泣きました」
 と北島三郎オーナーがマイクで言い、武豊騎手と並んでスタンドの拍手を浴びるころ、日が暮れかけて薄闇がひろがっている。
 その栄光のシーンを、キタサンブラックを生産したヤナガワ牧場の弘子さんと、私ら夫婦はいっしょに見ていた。息子の正普さんに代をゆずった正克さんは病後で無理できず、
 「行ってこいよ」
 と正克さんに言われて弘子さんは突然のように来たという。
 花束をかかえて表彰式から戻ってきた正普さんと母の弘子さんは、今日これから羽田空港へ行き、日高町へ帰るというのだ。それで正普さんが持っていた大きな花束を、うちのかみさんが持ち帰ることになったのだった。
 府中本町駅から川崎行きの満員電車の網棚に、その花束が乗っている。吊革につかまって花束を見ながら私は、昔、トウカイテイオーがジャパンCを勝ったとき、生産者の長浜秋一さんから、「これ、持って帰ってよ」と表彰式のあとに持たされ、府中の街にあった居酒屋「海瀬」に持って行って飾ったのを思いだした。
 するとそれも昔、札幌記念をダイナレターが勝ったとき、生産者として吉田善哉さんが花束を受け、「これ、頼む」と善哉さんに言われ、その花束をかかえてススキノを歩いていたのを思いだした。
 「おれ、キタサンを蹴っちゃったんだよなあ」
 「あの馬、どうしてあんなに強いんだ?」
 と前の座席にいる男たちの会話を聞きながら、私は網棚の花束を見ている。
 小さな花束を手にして涙ぐんでしまった女を見て、それを渡したおれも涙ぐんでしまったんだよなあという昔のひとときが私に浮かんできた。

 もう35年くらい前のこと、私が文芸誌に書いた小説「蟹」が神代辰巳監督によって映画化され、「指を濡らす女」というタイトルで上映された。
 そのころに私は札幌の中島中学校の近くで暮らしていたのだが、調布の日活撮影所に行って撮影現場に立ち会い、神代監督や主演の美加まどかさんと食事をしたり、酒をのんだりした。
 レストランでの食事中、撮影現場ではほとんど一日中、ベッドシーンで奮闘していた美加まどかさんが、白いブラウスの上のボタンまできちんとはめてナイフとフォークを使っている姿が私には印象的だった。言葉少なく、静かな表情も私の心に残った。
 上映されて一年ほど過ぎていたか、札幌の街を歩いていて私は、ロマン劇場といったか、ストリップ劇場の看板に、「出演美加まどか」を見つけて立ち止まった。
 花屋を探し、バラの花束を買い、劇場の楽屋を訪ねた。せまい通路で美加まどかさんは花束を受けとり、黙って花束を見ていて涙ぐんだ。
 ああ、美加まどかさんの涙。ダイナレターの花束。トウカイテイオーの花束。キタサンブラックの花束。ああ。花束。と私は南武線の網棚にある花束を、吊革につかまって見ていた。
 花束が私の家に着き、
 「なんだか走るたんびに強くなるなあ、不思議のように強い」
 と私が自宅でのテレビ観戦になった梁川正克さんに電話をすると、
 「ジャパンCの前の日、東京の新馬戦で、うちのサンライズノヴァというのが勝って、この勝ちが、キタサンブラックにどうつながるかなあと思ったりもしてたの。
 いやあ、ほんと、キタサンブラックの強さにはびっくり。こういうのを、神ってるって言うのかなあって」
 と笑い声が返ってきた。
 電話を終えて食卓に置いた花束を見ていて、キタサンブラックの花束がおれの家にあるのも、神ってるといえそうだなと思った。
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