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第319便 うれしそうな顔

2021.07.09
 2005年3月のこと、68歳だった私は心筋梗塞に襲われ、アウトを意識したけれど、どんな運があったのか、生き残った。
 その入院中のこと、病室の窓から青空を眺めながら、もういちど、北海道の空の下で暮らしてみたいと強く思った。どうして強く思ったのか。それは簡単には言えない。
 東京の下町育ちの私は、二度、北海道の暮らしを経験している。一度目は1966(昭和41)年から2年間、札幌市中央区南3条西6丁目グランドビル602号室で暮らしている。東京で宝石会社に就職した1年後、転勤となったのだ。かみさんと3歳の娘を連れた私は30歳だった。
 苫小牧、室蘭、函館、小樽、旭川、帯広、釧路とかの時計店やデパートを営業して歩くのだが、真珠のネックレスの束もある重い鞄を両手に下げている私の楽しみは、夏の函館と札幌の競馬場、それに岩見沢や帯広でのばんえい競馬場のスタンドに座っていることだった。私は競馬に救われていたのである。
 函館方面への出張での途中、列車の窓から見える社台駅や白老駅あたりの牧場風景が私には特別な世界。よく休日には娘をつれて、そこの牧場を訪ねて、隅っこから見物していた。
 いつも大声で牧夫たちに指示している大柄の人が、この牧場のボスなのだろうと見ていたが、その人の名が吉田善哉だった。まさか、それから15年ぐらいして、六本木の酒場で同席し、
 「あなた、どこかで会ってるなあ」
 と吉田善哉が言い、それから長いおつきあいとなったのは、私の人生での不思議のひとつだ。
 私の2度目の北海道生活は1983年、46歳のとき、札幌市のキャバレー「エンペラー」ほか、たくさんの酒場を営む青木商事の、窓から中島中学校が見える南13条の従業員アパートに単身でいた。
 どうしてそうなったかは長くなるのでここでは書かないが、私の仕事は名刺に「調査課」となっているホステスの引き抜き。調査課員は私ひとりだけなのだった。
 1年ほど働いて私は仕事の副作用かアル中気味。雑誌「優駿」の取材仕事がきて、早来町の吉田牧場を訪ね、社長の吉田重雄に私の体調を言うと、
 「うちで暮らして治しなさい」
 と空いてる小屋を見せてくれた。
 それで私は「エンペラー」を離れ、テンポイントの墓のある吉田牧場で1年間を過ごした。
 2009年2月の深夜のこと、私は新宿のゴールデン街の酒場で意識を失い、救急車に乗せられた。どんな運があるのか、私は数日の入院で心臓の故障から立ち直った。
 中山競馬場でビッグレッドファームの岡田繁幸とレストランへ行き、救急車に乗った話をし、そのときの入院中に、どうしてか自分は、もういちど北海道での暮らしをしたいと考えたという話をしたら、
 「うちはね、買った明和小学校をケイバクラブにして、その庭に、教員が使っていた住宅があるよ。よかったら、そこで」
 と岡田繁幸が言ってくれるのだった。
 それで72歳の私は、2009年6月20日から9月4日まで、ビッグレッド明和牧場で暮らした。
 スタリオンにいたステイゴールドと毎日のようにつきあい、全国各地から牧場を訪ねてくる人たちとコーヒーやビールをのむのが楽しかった。 

 2021年3月19日、岡田繁幸が71歳の誕生日にあちらへ行ってしまった。いろいろと気をつかってくれたことがあったので、それらをひとつひとつ思いだし、「ありがとう」と言った。
 2021年5月、また私の心臓が故障し、まいったなあと思っていたら、胃ガンを発見。心臓と胃の医師が話しあい、5月6日、胃ガンの手術。 
 術後2日目、嘔吐激しく、再びICUへ。アウトを意識したけれど、ほんと、どんな運があるのか、84歳の私は生き残っていた。
 入院中、やはり私は、また北海道で暮らしてみたいと思ったが、どこかから、誰かが、「もう無理」と言っている。
 退院して間もなく、テレビで見たオークスで、デムーロ騎乗のユーバーレーベンが勝った。父ゴールドシップ。母マイネテレジア。母の父ロージズインメイ。後見人、オカダシゲユキ。
 「おいおい、岡田繁幸さん。眠ってる場合じゃない。起きて!」
 と私は思った。
 それからダービーまでの1週間のあいだに、ユーバーレーベンが書かせた手紙が3通、私に届いた。共有馬主クラブのラフィアンターフマンクラブの会員で、ユーバーレーベンの1口馬主の人たちからである。
 「やりました、ユーバーレーベン。もう何と言ってよいのやら、唯、唯、びっくりして、うれしくて、うれしくてうれしくてたまりません。
 岡田繁幸さんの夢に乗せていただきました。ユーバーレーベンも足もとに不安が発生するまで目一杯に、力以上に走り、岡田さんに思いを届けたのだと思うと涙がとまりません。
 牧場見学でお会いした時の、岡田繁幸さんのやさしさは忘れられません」
 と書いてきたのは横浜市中区の山本隆司。数年前に廃業したが、ウインズ横浜の近くで珈琲店「サンパウロ」を営み、土日は馬券を楽しむ客で満席だった。
 「まさかGⅠレースのテレビの前で、気が狂うほど叫んだのは初めて。まさかこんな幸せな瞬間が自分に訪れるとは。
 ぼくは岡田繁幸という人に興味を抱いて、いっそう競馬にのめりこんだ。もうこの世にいないなんて思えない」
 と書いてきたのは札幌市中央区の成田静志。50代半ば。これまでの会社勤務を退職し、次なる人生を模索中。
 「わたし、岡田繁幸のうれしそうな顔を見るのが好きなの。その、うれしそうな顔、まるで少年。わたし、春の天皇賞を勝ったマイネルキッツも持ってた。祝勝会の岡田繁幸のうれしそうな顔、まるで少年。ほんとうにうれしそうな顔だった。
 空で、うれしそうな顔、してるかな?」
 と書いてきたのは、70代後半なのに、まだテレビの番組作りに現役の中村芙美子。
 岡田繁幸のうれしそうな顔。私も知ってる。
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