烏森発牧場行き
第320便 喧嘩腰
2021.08.11
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不意に思い出がよみがえって、そのひとときに現(うつつ)をぬかし、うっとりと過去に浸っていることがある。
北海道勇払郡早来の、テンポイントの墓のある吉田牧場のおばあちゃん、吉田ミツさんとの思い出だ。
ようやく雪がとけて、空でひばりが鳴き、どこからか川の流れの音が聞こえてくるような晴れた朝、牧場の隅っこのカシワの木につながれたアテ馬が投げ草を食っている。
「あれっ、カラスが」
と通りかかったミツさんに私が言う。カラスがアテ馬の背中にいて、タテ髪を抜いているようなのだ。
「巣を作るので、馬の毛を抜いてるの」
とミツさんはあたりまえの顔。
「えっ? そうなんだ」
私はびっくりである。
「アテ馬はさびしいんですよ。カラスが友だち」
とミツさんは少し笑った。
ミツさんが天国へ旅立って何年になるのだろう。10年かな?20年かな?
ミツさんを思いだすと、ミツさんと親戚になる社台ファームの吉田善哉さんの少年時代のことを
「家に遊びにくると大人をつかまえて、すぐ馬の血統の話に持ちこむの。なにしろ血統のことになったら、どんな人も負けるほど頭に入ってた。変な子供だったねえ、善哉さん」
とよく話題にしたのもなつかしい。
「善哉さんは変な子供」という言いぐさは、社台ファーム千葉牧場があったころに、「影の女場長」と言われた大野きよさんからも私は聞いている。
きよさんの父親は騎手だったが、引退してから北海道の社台ファーム白老牧場で働いていた。それできよさんも白老にいて、吉田善哉さんの少年時代を見ているのである。
「夜になっても帰ってこないから馬房を探すと、何かが気になってる馬の馬房にいるわけ。馬房の中で馬といっしょに。そのまま朝まで一緒にいることもあるの。変な子供だったね」
と言っていたきよさんも、天国へ行ってしまって何年が過ぎているのだろう。
きよさんと私の絵ハガキでのやりとりはハガキホルダーに残っていて、60ポケットのホルダーが二つあるほどだ。
ときどき読みかえすのだが、善哉さんがサンデーサイレンスを、どうしても日本に連れてこようと思いだしたころのハガキがおもしろい。
「サンデーサイレンスは何が凄いのですかと聞いたところ、あの馬には喧嘩腰があるんだと社長は言うのです。人間でも馬でも喧嘩腰がない奴はダメだと。
善哉社長は喧嘩腰ひとすじですねと言ったら、そこが問題なのだと。すぐれ者は喧嘩腰を見事に隠す能があるが、自分には、その能がないと笑ってました」
というきよさんのハガキなんて、ほんと、涙が出るほどなつかしいなあ。
ケンタッキーダービーやプリークネスSやベルモントSで、セクレタリアト以来の大物と言われたイージーゴアに、いわば無名のサンデーサイレンスが挑む。
そのレースのビデオを見てみろと、善哉さんがビデオを貸してくれて、その感想を聞かれた時、なんと私は、
「馬のことは何もわからないけど、サンデーサイレンスのレースには、とても上等な喧嘩腰を感じました。それが凄いと」
と言っているのだった。
「わたしとつきあっているから、少し馬のことが分かってきたのかね」
そう言って善哉さんはうれしそうだった。
「あのひとがね、サンデーサイレンスのことでミスができないと思っているのにはね、あのひととアメリカのせりの歴史というのか、それも関係してると思う。
あの人はそれを言わないけど、アメリカのせりへ行きだしたころ、昭和30年代から40年代だけど、競馬の世界で日本人なんか、誰も相手にしなかったのね。
せりの日に、食事する場所も、差別とまでは言わないまでも、あのひと、欧米人とは別にされていたみたい。
たぶん、そうしたことも、あのひと、どうしてもサンデーサイレンスを連れてくるという気持ちに含まれている、とわたしは思う」
そう私に言ったのは、善哉夫人の吉田和子さんだった。
そのことを私は善哉さんに直接、聞こうと何度か思ったが、どうしてか私は、聞かないほうがいいと判断して黙った。
社台スタリオンステーションでの、サンデーサイレンス初登場の日の朝、
「いよいよ、喧嘩腰の御披露目だ」
と善哉さんが私に言ったのが忘れられない。
競馬の世界にノーザンテーストの風が吹きまくったように、サンデーサイレンスの風も吹きまくった。
悲しいことに、吉田善哉さんは、サンデーサイレンス産駒の走りを見ることなしに、天国へ呼ばれてしまった。
そのあと大野きよさんが、家に善哉さんの写真を飾り、週末になると競馬予想紙をその台に置いて、社台グループの出走馬の名を全て言い、
「どうか勝たせてください」
と朝、善哉さんの写真に手を合わせるのだった。
その大野きよさんもいないし、吉田ミツさんもいないしと思いながら私は、私の遊びで天国の吉田善哉さんにケイタイをかける。
「すみません、勝手にケイタイなんかかけて」
「いいよ。こっちはヒマなんだから」
「最近、デジタル化とか騒いでいる世の中なんですが、ぼくの見たところ、どうも喧嘩腰の人間も馬も、どこにも見当たらないみたいなんですよ。それって、マズイ流れですよね」
「マズイね。こうなりたい。こうしたい。そう思ったら生きものは、どうしたって喧嘩腰になるものだ。逆に、喧嘩腰でないと、何も始まらないとも言えるしね」
と吉田善哉さんは言うのだった。
北海道勇払郡早来の、テンポイントの墓のある吉田牧場のおばあちゃん、吉田ミツさんとの思い出だ。
ようやく雪がとけて、空でひばりが鳴き、どこからか川の流れの音が聞こえてくるような晴れた朝、牧場の隅っこのカシワの木につながれたアテ馬が投げ草を食っている。
「あれっ、カラスが」
と通りかかったミツさんに私が言う。カラスがアテ馬の背中にいて、タテ髪を抜いているようなのだ。
「巣を作るので、馬の毛を抜いてるの」
とミツさんはあたりまえの顔。
「えっ? そうなんだ」
私はびっくりである。
「アテ馬はさびしいんですよ。カラスが友だち」
とミツさんは少し笑った。
ミツさんが天国へ旅立って何年になるのだろう。10年かな?20年かな?
ミツさんを思いだすと、ミツさんと親戚になる社台ファームの吉田善哉さんの少年時代のことを
「家に遊びにくると大人をつかまえて、すぐ馬の血統の話に持ちこむの。なにしろ血統のことになったら、どんな人も負けるほど頭に入ってた。変な子供だったねえ、善哉さん」
とよく話題にしたのもなつかしい。
「善哉さんは変な子供」という言いぐさは、社台ファーム千葉牧場があったころに、「影の女場長」と言われた大野きよさんからも私は聞いている。
きよさんの父親は騎手だったが、引退してから北海道の社台ファーム白老牧場で働いていた。それできよさんも白老にいて、吉田善哉さんの少年時代を見ているのである。
「夜になっても帰ってこないから馬房を探すと、何かが気になってる馬の馬房にいるわけ。馬房の中で馬といっしょに。そのまま朝まで一緒にいることもあるの。変な子供だったね」
と言っていたきよさんも、天国へ行ってしまって何年が過ぎているのだろう。
きよさんと私の絵ハガキでのやりとりはハガキホルダーに残っていて、60ポケットのホルダーが二つあるほどだ。
ときどき読みかえすのだが、善哉さんがサンデーサイレンスを、どうしても日本に連れてこようと思いだしたころのハガキがおもしろい。
「サンデーサイレンスは何が凄いのですかと聞いたところ、あの馬には喧嘩腰があるんだと社長は言うのです。人間でも馬でも喧嘩腰がない奴はダメだと。
善哉社長は喧嘩腰ひとすじですねと言ったら、そこが問題なのだと。すぐれ者は喧嘩腰を見事に隠す能があるが、自分には、その能がないと笑ってました」
というきよさんのハガキなんて、ほんと、涙が出るほどなつかしいなあ。
ケンタッキーダービーやプリークネスSやベルモントSで、セクレタリアト以来の大物と言われたイージーゴアに、いわば無名のサンデーサイレンスが挑む。
そのレースのビデオを見てみろと、善哉さんがビデオを貸してくれて、その感想を聞かれた時、なんと私は、
「馬のことは何もわからないけど、サンデーサイレンスのレースには、とても上等な喧嘩腰を感じました。それが凄いと」
と言っているのだった。
「わたしとつきあっているから、少し馬のことが分かってきたのかね」
そう言って善哉さんはうれしそうだった。
「あのひとがね、サンデーサイレンスのことでミスができないと思っているのにはね、あのひととアメリカのせりの歴史というのか、それも関係してると思う。
あの人はそれを言わないけど、アメリカのせりへ行きだしたころ、昭和30年代から40年代だけど、競馬の世界で日本人なんか、誰も相手にしなかったのね。
せりの日に、食事する場所も、差別とまでは言わないまでも、あのひと、欧米人とは別にされていたみたい。
たぶん、そうしたことも、あのひと、どうしてもサンデーサイレンスを連れてくるという気持ちに含まれている、とわたしは思う」
そう私に言ったのは、善哉夫人の吉田和子さんだった。
そのことを私は善哉さんに直接、聞こうと何度か思ったが、どうしてか私は、聞かないほうがいいと判断して黙った。
社台スタリオンステーションでの、サンデーサイレンス初登場の日の朝、
「いよいよ、喧嘩腰の御披露目だ」
と善哉さんが私に言ったのが忘れられない。
競馬の世界にノーザンテーストの風が吹きまくったように、サンデーサイレンスの風も吹きまくった。
悲しいことに、吉田善哉さんは、サンデーサイレンス産駒の走りを見ることなしに、天国へ呼ばれてしまった。
そのあと大野きよさんが、家に善哉さんの写真を飾り、週末になると競馬予想紙をその台に置いて、社台グループの出走馬の名を全て言い、
「どうか勝たせてください」
と朝、善哉さんの写真に手を合わせるのだった。
その大野きよさんもいないし、吉田ミツさんもいないしと思いながら私は、私の遊びで天国の吉田善哉さんにケイタイをかける。
「すみません、勝手にケイタイなんかかけて」
「いいよ。こっちはヒマなんだから」
「最近、デジタル化とか騒いでいる世の中なんですが、ぼくの見たところ、どうも喧嘩腰の人間も馬も、どこにも見当たらないみたいなんですよ。それって、マズイ流れですよね」
「マズイね。こうなりたい。こうしたい。そう思ったら生きものは、どうしたって喧嘩腰になるものだ。逆に、喧嘩腰でないと、何も始まらないとも言えるしね」
と吉田善哉さんは言うのだった。