仕事を終えると,歩きに行く。夏の終わりのころ,山道の石段をゆっくりと上がり,サッカーや陸上のグラウンドと野球場とのあいだ,バスケットボールのゴールポストがひとつ立っている抜け道のベンチで休んだ。遠くの少し赤い空に富士山が見える。まだ蝉が鳴いていた。
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テレビのコマーシャルを作ったりミュージカルの製作をしたりしていたキタムラさんが,20年も育ててきた会社を72歳で若い人にゆずって3年が過ぎる。今は電話で馬券を買うか,ときどきはウインズ銀座に出かけるか,それとクラブの40分の1馬主(何頭か持つなかにサンカルロがいる)を楽しんいる。
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『今でも思い出す原風景がある。少年時代,岩手県花巻市の実家の前にある田んぼで,石をボール代わりにバットを振って遊んでいた。
「コツーン,コツーンって。打った石ころが田んぼを越えるようになったとか,目に見える変化が面白くてやっていた。気づくと,真っ暗になっていることもあった」
日本人離れした長打力は,この時から磨かれてきた。東日本大震災で故郷の風景が様変わりしてしまった今こそ,東北地方に元気を届けたいと思っている』
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「自分にしか通じない言葉を頼りにして,それで暮らしてまいりましたわ」
という老人の小声が,この夏,私の心に刻みこまれた。
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42歳から私は文章を書くことで生活をしている。自分の才能について自信などなくて,おれみたいな頼りない奴が,困った奴が,ちゃんと生きていけるかなあという不安は,34年も文筆生活を続けている今も消えることがない。
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私が暮らす住宅地で,順番にまわってくる班長という役を引き受けねばならず,町内会の集まりに行った。いろいろな役目の人が20人ほどいて,防犯やらレクリエーションのことやら話し合っているなかで,明日はダービーだなあ,今日の雨はもっとひどくなる予報だが,なんとか奇跡が起きて,晴れてくれないかなあ,と私は思っている。
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4月中旬のこと,弘前市に住むテッちゃんからハガキが来た。5月中旬に銀座すずらん通りの画廊で開催するグループ展の案内状だった。出展者24名が列記されていて,そのなかにテッちゃんの名がある。そうした案内がテッちゃんから来たのは初めてだ。
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『ヤスさん,元気かい?と書かせてくれよ。
おれ,ヤスさんに手紙を書くとき,たいてい書きだしは,元気かい? だったような気がする。
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土曜日には中山でアネモネS,日曜日には阪神でフィリーズレビューと,桜花賞トライアルをひかえ,チューリップ賞を圧勝したレーヴディソールにどの馬が挑むのか,と楽しみがふくらんでいた金曜日の午後2時46分,宮城県牡鹿半島の東南約130キロ,深さ24キロを震源とする,マグニチュード9.0の地震が発生した。記録が残る1923年以降,国内で最大の地震だという。
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もう15年近くが過ぎてしまったが,私は還暦になっても草野球チームの一員だった。そのころのポジションは宴会部長だけれども。
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