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第228便 職人

2013.12.17
 私は東京の千代田区神田紺屋町で生まれ育った。家がJR神田駅に近く、2階の窓をあけると、プラットホームに流れる駅員のアナウンスが聞こえてきた。
 昭和20年代が私のガキのころである。町名の紺屋は、布を紺色に染める業のことだ。いくつもの家に物干し台があり、洗いたての白い布が細長い滝のように並び、風でひらひらと動いていた。
 町内に下駄屋も箒屋も漆器屋もあった。店先に立って私は、その店の主人や使用人たちの作業を見ているのが好きだった。
 自分もオトナになったら、こうして板の間に尻をつけて、何かをこしらえる仕事をしたいなあと、ぼんやり思った。
 紺屋町と鍛治町にはさまれて北乗物町があり、その路地には人力車が並んでいた。午後になると人力車が動きだし、赤坂あたりへ行くのだということだった。鍛治町は町名のごとく、鍛治屋の名残りがある。

 そうした空気のなかで遊びまわりながら、ネクタイをしめて会社へ行くのでなく、どこにも出かけないで家で、何かを作ってめしを食う人になろうというのが私の希望になった。つまり、職人になりたいのだった。
 どうにかこうにかながら、人生の大半を家にいて仕事をし、職人みたいな暮らしをしている自分を、「ま、幸せだった、ということにしよう」と思い、ガキのころをよみがえらせていたのは、2013年11月6日の夜おそく、テレビのNHKスペシャルの再放送、「究極のバイオリン」、ストラディヴァリウスのミステリーに挑む!を見ているときだった。語り手の言いぐさに、何度も「職人」という言葉が出てきたからだろう。

 50歳代のころに10年間、北海道でのクラシック音楽祭の司会をしていた私は、バイオリン奏者とのつきあいもあったので、ストラディヴァリウスのことは聞いていて、そのNHKスペシャルには引きこまれた。
 1644年に生まれ、1737年に93歳で死んだアントニオ・ストラディヴァリウスは、イタリアのクレモナでバイオリンを作っていた。
 クレモナ派の巨匠であるニコロ・アマティに師事して楽器製作を学び、初期の作は師の影響が強かったけれど、やがて独自の型を生みだし、現在の標準型バイオリンの創始者となった。その形状、その色彩は美しく、音色は豊麗をきわめている。
 ストラディヴァリウスの1000を超す作品のうち、バイオリンは540、ビオラが12、チェロが50、と現存しているそうだが、とくに1716年以後の作品は、最高の名器とされているのだ。
 ヴィヴァルディもモーツァルトもベートーベンも、ストラディヴァリウスのバイオリンが奏でる弦の音に託したものがある。音色がかがやき、澄んでいるのだ。
 300年が過ぎようとしていても、ストラディヴァリウスのバイオリンに匹敵するバイオリンが現れないのはどうしてか。その謎に楽器製作職人が、学者が、演奏家が向きあう、というのがその番組のテーマだった。
 私はテレビの前で感動していた。感動すると、その記念のために、ウイスキーの水割りを一杯、ゆっくりとのむのが習慣である。祝杯なのだ。

 グラスの酒を見ていて、相撲社会で、力士の化粧まわしなどを入れる箱、「明荷」が私の頭に浮かんできた。
 この10月の末、私は淡路島へ2泊3日の旅をした。競馬で知りあった南あわじ市の歯科医の、佐藤圭さんの誘いで出かけたのである。
 圭さんと祐代夫人との夕食のとき、徳島生まれだという祐代(さちよ)さんに、お父さんの仕事は何?と私が聞いた。
 それで1911年生まれの祐代さんの父、三好美明さんが竹細工師で、網代編みという特殊な技法の、若乃花とか栃錦とか朝潮とか大鵬とか柏戸とかが注文をした明荷づくりの名手だったのを知った。
 私は「職人」というものに憧れがあるので、あくる日、「三好美明」を紹介している昔の雑誌や新聞を祐代さんから見せてもらった。
 「明荷は網代編みという特殊な方法で編まれるが、工程的には複雑な工法、技能を必要とする。竹を直角に曲げる時には熱源を一切使用しない。
 これは竹剥技術といわれる経験による肘、手の微妙なバランスを必要とする技法である。このあと和紙を貼っていくのだが、この作業も竹と貼り紙を完全に密着させねばならず、卓越した技術を必要とする。
 この製品は腕力のある力士が使用してもこわれずに丈夫にでき上っている」
 といった記事を読みながら、作業に打ちこむ三好美明さんのモノクロ写真と向きあい、私は旅先の宿での、うれしい酒に酔った。

 そのとき、私が肘をついているテーブルの前に松山吉三郎さんが現われた。松山吉三郎さんが亡くなって何年が過ぎたろう。
 フェアーウィンやダイナガリバーでダービーを勝ち、モンテプリンスやモンテファストで天皇賞を勝った松山吉三郎さんが調教師を引退して、半年ほどが過ぎた日だったか、東府中の家に訪ねたひとときが、淡路島の旅館「海峡」で再現したということだ。
 「重労働ばかりの日が続いてな、早く、一日も早く、おじいさんになりたいって、そればかり思ってたよ、わたしの修業時代は。
 いっしょに働いていたのが肺病で死んじまうんだが、そいつは元気なころ、おい吉三郎、がんばって、かわりがいない人間になろうなって言ってたんだ。かわりのきく奴はどこにでもいるが、かわりのない奴はめったにいない。そういう職人にならなかったら、生きてる意味がないって」
 そう言った松山吉三郎さんとのシーンを、私は淡路島で演じているのだった。
 「職人」
 と私は心でつぶやき、もういっぺん、雑誌にいる三好美明さんの姿を見る。
 三好美明さんと松山吉三郎さんが映像としてダブり、おれが競馬を好きになったのは、その空気に職人の匂いがしてくるからだろうと思った。
 それから数日してのテレビで、職人アントニオ・ストラディヴァリウスの凄みを見たというわけだ。
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