烏森発牧場行き
第325便 卯助さん
2022.01.11
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2021年5月、私は胃ガンの手術をした。ステージも重く、ガンの位置も悪く、長時間の手術となった。
どうやら助かったな。そう思った手術後2日目の朝、激しく嘔吐し、それが止まらず、ベッドごと走るように廊下を移動し、エレベーターに乗った。そこまでは意識があったが、そのあとは何も記憶がない。
意識が戻った。そこは地下の手術室だ。何時間、それとも何日、そこにいたのか分からなかったが、おれ、生きてる、と思った。
あとで知ったことだが、誤嚥性肺炎を発症しかけて集中治療室へ運ばれたそうで、
「ヨシカワさん、運を持ってる」
と看護師が言った。余計なことだが、その看護師、いつも行くスナックでカラオケの「昭和枯れすすき」のデュエット相手をしてくれるマドカちゃんに似てるなあと思ったが、マスクをはずしたら全然違うかもしれない。そういえば、ずいぶん長いこと、テレビ以外で、マスクをしてない女性の顔を、あまり見てないなあと思った。
病室に戻った私は幻覚にはまった。白い天井のはずなのに、絵とか文章がびっしりと、天井だけでなく壁にまでも並んでいる。それに見知らぬ男とか女とかがベッドに近づいてきて、肩を叩こうとしたりするので、怖くてコールして看護師を呼んでしまうのだが、
「誰もいませんよ」
ということなのだ。
朝、はっきりと、知っている人が天井で絵になっていた。卯助さん、斉藤卯助さん。今は廃業してしまったが、昔、というか大昔、荻伏牧場を開業したのが斉藤卯助さんだ。
幻覚は不思議だったが、3日ほどして病室が変わって、幻覚が消えたのも不思議だった。
どうして、モジリアニの絵のような、セザンヌの絵のような、ピカソの絵のような人間の顔が並んでいたなかに、卯助さんの顔がはっきりと、しっかりと天井にいたのか。それを私は考えた。
伏線があった。手術の前日、病室のベッドで、この入院で運悪く死んでしまえば仕方ないけれど、もし生き残って、体調が戻ってくれたら、いちばんしたいことって何だろうと、ずいぶんと思いめぐらした。
酒場で冗談をとばしているのが生き甲斐の自分だけど、もういちど、北海道の景色を、うろうろと見てまわりたいなあと思うと、そこで思考がぴったりとおさまったようだった。
すると私は、40年も前に、初めて苫小牧から日高線に乗ったときの自分のうれしさを思いおこし、急行に無視される駅の名前を必死のように思いだそうとし、本桐、荻伏、絵笛とか、紙に書きだして、なんだか幸せになった。
私は昭和41年と42年、東京から札幌に移り住み、宝石会社の札幌支店の営業マンとして、北海道のあちこちへ出張した経験はあるが、雑誌「優駿」の取材仕事での日高線は、私の人生の特別な出来事だった。
イギリスに出かけてダービー馬グランディの仔を身籠り、初めて母になる桜花賞馬ハギノトップレディの、出産間近の日日を書く仕事で荻伏牧場の寮に泊めていただいたのだ。
牧場のボスは斉藤隆さんで、その父、74歳となる卯助さんは病後で発言は不自由で、左手で杖をついて厩舎回りをするのが楽しみのようだった。
斉藤家の居間には調教師とか新聞記者とかの誰かしらがいて、冗談好きの隆さんといろいろな会話がとびかい、それを聞いているのが私は楽しかったが、そこに卯助さんもいて、「それはいい話だ」と思ったときはニコニコ、「変な話だ」と感じたときは、大丈夫な方の左手を握り、テーブルとかコタツの板を、ガンガンと叩きつけていた。
初めは私を見ても無表情だったが、日が過ぎるにつれ、言葉をかける私に、ニコッと笑顔を返してくれた。
厩舎回りをしている卯助さんと何度も会い、ニコッと笑顔をもらって私は安心し、この老人が昔、浦河町姉茶の松橋吉松さんの牧場で生まれた牡駒を武田文吾調教師に見せ、その牡駒がシンザンという名になったんだよなあと思った。
雨ふりの日も、まだ三月で雪のある放牧地、長靴をはいた卯助さんが左手に杖、右手に傘で牧柵の近く、じいっと馬たちのいる遠方を眺めていたり、馬房にいる種牡馬ネヴァービートを見つめていたり、私は言葉を失くしているような卯助さんの言葉を、一生懸命に推察するのが幸せな時間だった。
1984年に私は、勇払郡早来の吉田牧場で暮らしていた夏、浦河日赤病院に入院していた卯助さんを見舞いに行った帰りぎわ、握った手をなかなか離してくれなかった。その年の秋、卯助さんが死んだと知らされ、吉田牧場のボスの吉 田重雄さんといっしょに別れの式へ出かけた。
「あんな気の強い奴でも、死ぬときは死ぬんやなあ。不思議や」
と武田文吾師が言ったのと、棺にいた卯助さんが私に、ニコッとしてくれたような気がしたのを、私は忘れないでいる。
もし死なないで済んだら、もういっぺん、卯助さんを墓に訪ね、現在でも年に何度か電話をしあう隆さんと会い、卯助さんの話をしたいなあと願ったのだ。
ハギノトップレディの出産を書きに荻伏牧場へ行ったのをきっかけに、それからの長い歳月、私は競走馬の生産地をうろつきまわる人生になった。その原点は、卯助さんのニコッとする笑顔だったのだろう。
「競馬というのは馬券のことなのよ。馬券がすべて。牧場のことなんか、どうでもいいの。あなたの書くことに、何ひとつ、わたしは興味がないんだなあ」
と私に言う人が、よくいる。そう言われても、私は感じない。それはそれで間違っていなくて、その人その人の競馬があるのだ。
私にも私の競馬がある。手術後の病室の白い天井に、どうして斉藤卯助さんがいたのか。それを考えてみるのも、おれの競馬なのだ。
「マイリー」
と言ってみる。昭和32年、卯助さんがイギリスから輸入したハギノトップレディの4代母の名だ。
どうやら助かったな。そう思った手術後2日目の朝、激しく嘔吐し、それが止まらず、ベッドごと走るように廊下を移動し、エレベーターに乗った。そこまでは意識があったが、そのあとは何も記憶がない。
意識が戻った。そこは地下の手術室だ。何時間、それとも何日、そこにいたのか分からなかったが、おれ、生きてる、と思った。
あとで知ったことだが、誤嚥性肺炎を発症しかけて集中治療室へ運ばれたそうで、
「ヨシカワさん、運を持ってる」
と看護師が言った。余計なことだが、その看護師、いつも行くスナックでカラオケの「昭和枯れすすき」のデュエット相手をしてくれるマドカちゃんに似てるなあと思ったが、マスクをはずしたら全然違うかもしれない。そういえば、ずいぶん長いこと、テレビ以外で、マスクをしてない女性の顔を、あまり見てないなあと思った。
病室に戻った私は幻覚にはまった。白い天井のはずなのに、絵とか文章がびっしりと、天井だけでなく壁にまでも並んでいる。それに見知らぬ男とか女とかがベッドに近づいてきて、肩を叩こうとしたりするので、怖くてコールして看護師を呼んでしまうのだが、
「誰もいませんよ」
ということなのだ。
朝、はっきりと、知っている人が天井で絵になっていた。卯助さん、斉藤卯助さん。今は廃業してしまったが、昔、というか大昔、荻伏牧場を開業したのが斉藤卯助さんだ。
幻覚は不思議だったが、3日ほどして病室が変わって、幻覚が消えたのも不思議だった。
どうして、モジリアニの絵のような、セザンヌの絵のような、ピカソの絵のような人間の顔が並んでいたなかに、卯助さんの顔がはっきりと、しっかりと天井にいたのか。それを私は考えた。
伏線があった。手術の前日、病室のベッドで、この入院で運悪く死んでしまえば仕方ないけれど、もし生き残って、体調が戻ってくれたら、いちばんしたいことって何だろうと、ずいぶんと思いめぐらした。
酒場で冗談をとばしているのが生き甲斐の自分だけど、もういちど、北海道の景色を、うろうろと見てまわりたいなあと思うと、そこで思考がぴったりとおさまったようだった。
すると私は、40年も前に、初めて苫小牧から日高線に乗ったときの自分のうれしさを思いおこし、急行に無視される駅の名前を必死のように思いだそうとし、本桐、荻伏、絵笛とか、紙に書きだして、なんだか幸せになった。
私は昭和41年と42年、東京から札幌に移り住み、宝石会社の札幌支店の営業マンとして、北海道のあちこちへ出張した経験はあるが、雑誌「優駿」の取材仕事での日高線は、私の人生の特別な出来事だった。
イギリスに出かけてダービー馬グランディの仔を身籠り、初めて母になる桜花賞馬ハギノトップレディの、出産間近の日日を書く仕事で荻伏牧場の寮に泊めていただいたのだ。
牧場のボスは斉藤隆さんで、その父、74歳となる卯助さんは病後で発言は不自由で、左手で杖をついて厩舎回りをするのが楽しみのようだった。
斉藤家の居間には調教師とか新聞記者とかの誰かしらがいて、冗談好きの隆さんといろいろな会話がとびかい、それを聞いているのが私は楽しかったが、そこに卯助さんもいて、「それはいい話だ」と思ったときはニコニコ、「変な話だ」と感じたときは、大丈夫な方の左手を握り、テーブルとかコタツの板を、ガンガンと叩きつけていた。
初めは私を見ても無表情だったが、日が過ぎるにつれ、言葉をかける私に、ニコッと笑顔を返してくれた。
厩舎回りをしている卯助さんと何度も会い、ニコッと笑顔をもらって私は安心し、この老人が昔、浦河町姉茶の松橋吉松さんの牧場で生まれた牡駒を武田文吾調教師に見せ、その牡駒がシンザンという名になったんだよなあと思った。
雨ふりの日も、まだ三月で雪のある放牧地、長靴をはいた卯助さんが左手に杖、右手に傘で牧柵の近く、じいっと馬たちのいる遠方を眺めていたり、馬房にいる種牡馬ネヴァービートを見つめていたり、私は言葉を失くしているような卯助さんの言葉を、一生懸命に推察するのが幸せな時間だった。
1984年に私は、勇払郡早来の吉田牧場で暮らしていた夏、浦河日赤病院に入院していた卯助さんを見舞いに行った帰りぎわ、握った手をなかなか離してくれなかった。その年の秋、卯助さんが死んだと知らされ、吉田牧場のボスの吉 田重雄さんといっしょに別れの式へ出かけた。
「あんな気の強い奴でも、死ぬときは死ぬんやなあ。不思議や」
と武田文吾師が言ったのと、棺にいた卯助さんが私に、ニコッとしてくれたような気がしたのを、私は忘れないでいる。
もし死なないで済んだら、もういっぺん、卯助さんを墓に訪ね、現在でも年に何度か電話をしあう隆さんと会い、卯助さんの話をしたいなあと願ったのだ。
ハギノトップレディの出産を書きに荻伏牧場へ行ったのをきっかけに、それからの長い歳月、私は競走馬の生産地をうろつきまわる人生になった。その原点は、卯助さんのニコッとする笑顔だったのだろう。
「競馬というのは馬券のことなのよ。馬券がすべて。牧場のことなんか、どうでもいいの。あなたの書くことに、何ひとつ、わたしは興味がないんだなあ」
と私に言う人が、よくいる。そう言われても、私は感じない。それはそれで間違っていなくて、その人その人の競馬があるのだ。
私にも私の競馬がある。手術後の病室の白い天井に、どうして斉藤卯助さんがいたのか。それを考えてみるのも、おれの競馬なのだ。
「マイリー」
と言ってみる。昭和32年、卯助さんがイギリスから輸入したハギノトップレディの4代母の名だ。