烏森発牧場行き
1937年東京都生まれ。
芝高等学校卒、駒澤大学仏教学部中退。
薬品会社の営業、バーテンダーなど数々の職業を経験。
1978年すばる文学賞受賞。
1999年社台ファームの総帥、吉田善哉氏を描いた「血と知と地」(ミデアム出版社)で、JRA馬事文化賞、ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。
JBBA NEWS掲載の「烏森発牧場行き」第1便~第100便は「サラブレッドへの手紙(上・下巻)として2003年源草社から出版されている。
著者のエッセーには必ず読む人の心をオヤッと引きつける人物が毎回登場する。
「いつも音無しの構えでみなの話に耳をかたむけ・・・」という信条で、登場人物の馬とのかかわり、想いを引き出す語り口は、ずっと余韻にひたることができるエッセーとなっている。
馬・競馬について語る時は、舌鋒鋭く辛口の意見も飛び出すが、その瞳はくすぐったいような微笑みを湛えている傑人である。
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第179便 とてもの時代 2009.11.01
信者が祈りを捧げて眠りにつくように,私は本を手にベッドで横になる。その本は,言わば,友だちと称んでいいかな。 ここ数日の友だちは,文春文庫の,須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」だ。 (1950年代の半ばに大学を卒業し,イタリアへ留学した著者は,詩人のトゥロルド司祭を中心にしたミラノのコルシア書店に仲間として迎え入れられる。理想の共同体を夢みる三十代の友人たち,かいま見た貴族の世界,ユダヤ系一家の物語,友達の恋の落ち...
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第178便 アベタケ,知ってる? 2009.10.01
松たか子の主演映画「ヴィヨンの妻」の根岸吉太郎監督が,カナダで開催された第33回モントリオール世界映画祭で最優秀監督賞を受賞し,「メルシー・ボク(ありがとう)」を5回も繰り返した,と新聞で読んだ。 根岸作品で「ばんえい競馬」を題材にした「雪に願うこと」は,2006年度のJRA馬事文化賞を受賞している。その祝いのパーティーのときと,ほかの酒のときにも,少しだけど競馬の話を根岸監督としたことのある私は,その思い方に共感してい...
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第177便 キムラくん 2009.09.01
ビッグレッドファーム明和の事務所は,タネ付けシーズンだと朝5時半の始業だが,7月になって8時になった。事務所のファックスを使わせてもらって,そのあと,ほとんどの朝,スタリオンの厩舎に寄る。 昼の2時に放牧されて,朝5時半に馬房へ帰るタネ馬たちは,ちょっと眠そうでぼんやりしている。 「おはよう」 飼葉桶に顔をつけているタイムパラドックスに挨拶をする。私とタイムパラドックスとの距離は,柵をへだてて20センチか。タイム...
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第176便 斜里から,相模原から 2009.08.01
40歳を過ぎて競馬のことを文章にしはじめた私は,牧場の経営者や従業員や,馬主や調教師たちと会う機会が多くなった。あれえ,と思った。競馬の世界というのは,人に会うと,たいてい,「この人,お金持ちなのか貧乏なのか。この人,何を言ったって,馬を買える人じゃないな。この人,有名なのか無名なのか」そんなふうに見られているような気がした。 それは人間の社会というのは,どこへ行っても同じようなもの。競馬の世界に限ってということ...
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第175便 大井で青年に会って 2009.07.01
16頭立て8番人気,金子正彦騎乗のサイレントスタメン(父レギュラーメンバー,母ジプシーワンダー,母の父ブライアンズタイム)が東京ダービーを勝った日の大井競馬場で, 「どうも」 と青年に挨拶をされた。パドックの近くの人ごみのなかだ。 「どうも」 そう私も挨拶を返したが,さて,誰? 「わからないですよね」 青年が少し笑った。 「ごめん,わからない」 私も少し笑った。 青年が話をしてくれて,わかった。静内の牧場の息子だ...
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第174便 人,いとしき日日よ 2009.06.01
5月8日,金曜日の夜,横浜の港に近いホテルで,私流に言うと「ルナアル先生を偲ぶ会」があった。ホテルの案内板は,むろん本名での表示だ。 註釈をすると,その工学博士を「ルナアル先生」と呼んでいたのは私だけで,偲ぶ会に出席した私以外の誰もが,「ルナアル先生」なんて知らない。 彼と私は,鎌倉駅に近いバーで10年来の酒場友だちだった。或る晩に彼が,「ぼくは子どものころに赤ら顔で薄いソバカスがあって,にんじんというアダ名がつ...
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第173便 桜川 2009.05.01
ニュージーランドTがメインの日の中山競馬場。まだ午前の,快晴のパドックで声をかけられた。北海道浦河のAクンだった。私はAクンの父とはつきあいがなく,祖父と仲良し。中学生だった孫のAクンを連れた祖父が私の家に泊まったこともある。 大学を出て2年ほど東京でサラリーマンをしていたAクンは,祖父が亡くなった実家に戻り,牧場の仕事についた。それから数年が過ぎている。賀状のやりとりぐらいしかしていない。 「馬,走るの?」 「それ...
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第172便 トシザブイとツキサムホマレ 2009.04.01
「しょうがねえなあ,こんなとこにシケこんじゃって。ペコちゃん,泣くぞ」ベッドに寄せた丸椅子に腰かけて私が言い, 「ナサケなくて,ヘもナミダも出ねえ」とクボちんがベッドで言い返した。 7歳下の大工,久保和夫を,私はクボちんと呼んでいる。横浜の病院の5階の2人部屋だ。廊下の側の老人はどこかへ行っていて,ベッドがからっぽだ。 窓に雨がぶつかってくる。1日おきに降ったり晴れたり,変な3月だ。「ペコちゃんだなんて,なつか...
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東京競馬場へ行くとき,川崎駅で立川行きの南武線に乗る。下車する府中本町駅まで,駅の数は19。時間は45分かかる。もう何十年も前から,どうして準急と急行とかがなくて,各駅停車しかないのだろうと思う。そうか,行くときは競馬新聞をゆっくりと読み,たいてい損をしている帰りは,ゆっくりと頭を冷やせということかな? 川崎駅を出て10分ぐらいした向河原駅あたり,「百年に一度の経済ピンチと言うけど,あいかわらず競馬をしに行く人がいる...
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新橋駅近くで午後3時に用事が済んだ。夜6時に目黒で友だちと会う約束がある。それまでどう時間をつぶそうかな。 とりあえず久しぶりに銀座でも歩いてみようか。銀ぶら。まだ,銀ぶらなんて言い方が残っているのかね。そんなふうに思いながら銀座の方へ歩きだした私に,「オフト」と聞こえてきて足をとめた。 2008年12月末のことである。北海道の新聞社を定年退職したばかりの札幌に住むAさんが,「オフトって知ってますか?」と電話してきた。...